予備校講師採用試験に2回落ちた九大チンカス研究員の入試数学語り。

毒舌、下ネタ注意。※年々自信を失い、それに伴って毒もマイルドになってきています。

主観と客観の区別。

 ツイートしようかと思ったんですけど、一寸長くなったんでこっちで。*1

 

 タイトルの通りです。主観と客観の区別を付けずにものを言う人間が多いですが、基本的には害悪だなあ、と思って。某ゆきの「あなたの感想ですよね」ってやつです。これだけ煽られてんのに、未だにやってる人間、多いですよね。

 俺は一応、数学で教師もやってるんで、指導者を例に考えてみましょうか。この例で言うと、つまり「単に自分が好きってだけのもの」と「多くの人が学ぶべきもの」ってのは、基本的に異なっており、それを分けて考えられない人は、まあ基本的に指導者には向かんだろうという話です。勿論「指導要領に入っている」という意味では、学校の各教科の内容はどれも学ぶべきものではありますが、そうではなくて、「人生に必要か」とか「人生を豊かにし得るか」みたいな話です。例えば初等幾何。三平方の定理くらいなら未だしも*2、意味不明な補助線の引き方なんか、如何考えても生きていく上で必要無いし、殆どの人にとって生活を豊かにする様な類いのものではありません。勿論「だから教えるな」と短絡的な結論を出したい訳ではありません。そうではなくて、例えば作図問題が出来なかった学生に対して、人間性や社会性みたいな、全然関係の無いものの否定を含意するかの様な事を言い放つ``教師''とか、世の中に結構いるのではなかろうかと。こういう``教師''を糾弾するのが目的です。初等幾何なんてのは、数学教師が好きなだけのもの、或いは数学教師の飯のタネってだけのものであって、その出来不出来で学生に何かネガティヴな物言いをするなんてのは、寧ろてめえの方こそ頭おかしいんじゃねえか、って話です。こういう一般論的に不要な内容ってのは、教師は飽く迄「俺は好き」つって紹介して、それで食いついてきた学生にだけより詳しく話してあげれば良いのです。いやてか若い子とかを見ていると本当に思うんですが、``数学教師''のネガティヴな物言いが原因で数学アレルギーを起こしちゃう子が如何に多い事か。何か``数学教師''って、こういう「相手の気持ちを考えてものを言う」みたいなの、出来ない人が多いんですかね?まあ俺も大概、他人の事を言えたもんではありませんが、少なくとも俺は「俺は他人の気持ちが判らない」ってのと「だから気を付けなきゃいけない」ってのぐらいは意識しています。*3てか、他人の数学の不出来を偉そうに指摘する前に、てめーはちゃんと逆像と逆写像の違いやら商集合の元の形やらをきちんと解ってんのか、って話ですよね。てめーが理学部数学科で如何いう立場だったか思い出したら、少しは数学が出来ない人間の気持ちも考えられる様になりそうなもんですが、逆像と逆写像を混同している様な奴等には、それだけの知能すら無いんですかねえ。*4

 

 さて``要らなそうな数学''の話をしたんで、「要りそうな数学」の話もしておきましょうか。例えば三角函数とか指数函数。馬鹿な政治家とかが``要らない数学''としてよく挙げる名前ですが、理系卒のエンジニアなんかはまじで良く使うんじゃないでしょうか。確かに日本人全員には直接は要らないかもだけど、これを教科書から外したら、恐らく日本社会は数年後には壊滅する気がします。これも(さっきの教師の話とはまるっきり逆の)「主観と客観の混同問題」ですね。そりゃあ昼間は会議中に寝て夜は三密会食するだけの人達には要らないかもだけど、これが無くなったら世は如何なるかって話ですよね。数学が要らないんじゃなくてお前が数学に要らねえんだよまじで。てかねずみ講にでも引っ掛かって「馬鹿」つってワイドショーで笑いものにでもされやがれまじで。勿論、全員には要らないから全員に強制するのは良くなくて、でもだから高校は理系文系に分かれるんですよね。

 

 っつー事でまあ、書きたい事はこんなもんですかね。

*1:やる気が出ない時って、こういう文章を書きたくなってしまうんですよね。良くない感情な気がしますが、まあ書いてスッキリしたらやるべき事に取り掛かるって事で。

*2:流石に三平方の定理は理系だと知っていないと多分色んな人が困る。主に建築関係とか?

*3:「いや意識出来てないじゃん」って思う人、まじで多い気がします。いや本当、その場で教えてください。感謝しかしないです。

*4:何かさっきのさっきで自分が書いた事が思いっ切りブーメランとして飛んできそうな文章ですが、でも「逆像と逆写像の混同」と「主観と客観の混同」は、どちらも「少し落ち着いて考えれば明らかに違うと解るもの混同している」という点で、何か似た様な問題でもある気もします。あーいやでも今は「主観と客観の区別」ではなく「相手の気持ちを考えろ」という話との比較だったんで、やっぱこの文章は駄目だわ。すいません。

虚しみが深い。

 何か一寸、自分語りにはまりそうなので、これから割と頻繁にやるかもです。

 いや、戦争映画の戦闘シーンを幾つか見てたんですけど、人間が一瞬でバラバラになったりして、本当、凄まじい恐怖を感じます。「人が死ぬ」という一大事が、一瞬で起きて一瞬で次のシーンに移行して…こういうのを見ていると、本当、身体を鍛えてんのも虚しくなってきます。どんなに身体を鍛えても、あの状況に置かれたが最後、殆ど意味が無いものになってしまう。*1一個人の存在のちっぽけさを自覚させられてしまいます。

 まあでもそうなるとやっぱ「そもそもあの状況に身を置かずに済ませる」しか無くて、それにはやっぱ、勉強して頭良くなるしか無い気がします。明らかに人間は肉体的な強さよりも頭脳優位の存在ですからねえ。でも、そう思って知性の業界に身を置こうとしている俺は今、矢張り才能の差で自分のちっぽけさを自覚させられている訳でして。「絶対に勝てない」と思う人が「絶対に勝てない」って思う人がいて、その人にもまた「絶対に勝てない」って思う人がきっといて。いや、勿論、理想論としては学問って勝ち負けではない訳なんですが、実際には研究費が取れなかったり、就職出来なかったり、或いは研究集会で発表して「あの人の数学は大した事ない」なんて思われたり、確たる現実として「勝ち負け」が存在します。うーん、何とか搦め手で生き残っていけないものか…

 戦争にしろ競争社会にしろ、人間って本当にちっぽけな存在で、でもそういう状況を作っているのもやっぱり人間で。あーもうまじ本当に何もかもにむかつきますわ。こうなると段々「神になりたい」みたいな妄想に憑り付かれてしまう訳なんですけど、現実から逃げる為に妄想に憑り付かれ過ぎると、現実の状況が悪化していってしまうんで、まあじゃあ妄言はこのくらいにして、また業務に戻りますね💩

*1:勿論、例えば脚が速けりゃ多少生存率は上がるかもですけど、高が知れているでしょう。

数学を続ける(続けたい)理由。

 業務の息抜きに少し自分語りをば。

 俺が数学を好きな一番の理由って、恐らく「数学が知識として1番普遍的で確りしている」と思うからなんですよね。だって、サイエンスは所詮、観測結果から帰納した知識に過ぎないし、言語なんかはそもそも人間が作ったものな上に、時代背景みたいな下らないものに左右されて直ぐに文法的に美しくない例外とかを生み出してしまうし。それに比べて数学は、全て公理から演繹されているし、定理に例外は存在しないし(「この場合は成り立たない」みたいな主張の述べられ方は在るけど)、現実とか社会とかそういう下らないものが介入する余地が無い(少ない)のが最高です(勿論「どういう分野が発展していくか」みたいなのは大いに人類の観測能力や時代背景に依存する訳だけれど、だから俺はそういう臭いがする分野は余りやりたくない)。俺って兎に角「自分が人間である事(もっと言うと、存在が実体に依存している事)」と「自分がよく知らない他人」が大嫌いなんで、出来るだけこういう``汚くて惨めな現実''から遠くに在る、より普遍的なものが好きなんだと思います。後はこう思う様になった切っ掛けは、やっぱ大学受験ですかね。いや、沢山の科目を勉強する訳ですが、他の科目は結局は最後は「現実にこうなのだから後は覚えるしか無い」みたいな説明をせざるを得なくなるし、しかもそこを覚えちゃえば何か偏差値は直ぐに70超えるし、詰まんないんですよね。一方で数学は、もうまじで全部自分で納得出来るし、しかもそれで挑んでも偏差値60くらいだし、いや本当に学問として1番優れている気がしてなりません。

 もう1つの理由は「才能の無い人間(俺)が、方法論だけでこの特別な学問に何処迄太刀打ち出来るか、試してみたい」ってのもですかね。いや、入試の攻略法とか書いているのからも判ると思うんですけど、俺って兎に角「再現性の高い方法論を考える」ってのが大好きなんですよね。だからこそ、自分の中で特別な学問であるこの数学で、自分の方法論を何処迄作れ、そしてそいつで何処迄太刀打ち出来るのかを、是非試してみたいんです。

 っつー事で、俺って数学自体よりも、「数学の在り方」とか「方法論」とかそういうのばっか好きで、だから勉強は全然好きじゃないんですよね。てか、そもそもよく知らない他人とか嫌いだし、そんな連中が(俺にとって)難しく書いてある文章とか、まじで糞程にも読みたくねえ。権威とかも大嫌いなんで「皆が「大事大事」言ってるけど、その重要性を俺が認識出来ていない分野」とかも、ヘイトの対象でしかねえ。

俺様史上最高の出来なので、ひょっとしたら受かるかも知れない申請書。

 前の記事をご覧になった某先生が「落ちるよりも受かると口にしていた方が受かるものですよ」と言ってくださったので、この記事では「受かる」と口にしてみようと思います。

 

 いやてか前の記事の最後でも一寸追記しましたが、正直「ひょっとしたら受かるんじゃね?」とは思っています。いやだって本当にめっちゃ良い申請書なんですってまじで。学振の審査って「必ずしも自分と専門が近い訳ではない人」も審査員にいる訳ですが(と言うか寧ろ殆ど?)、そういう人にも絶対に読んでもらえる様にまじで気合入れて書きました。てか、非専門向けの高さ函数(俺の専門です)の概説文章としてもめっちゃ優れていると思います。

 研究の趣味も良い。だって高さ函数って「絶対値の一般化」ですよ?こんなもん、大切に決まってるじゃないですか。確かに数学自体は簡単かも知れないですが、寧ろこれだけ基本的なものでも未だこれだけやるべき事が数学には残っているんです。前の記事でも同じ様な事を書きましたが、小難しい事をやる前に先ず大切なのは基本ですよまじで。

 あー駄目だまじで受かる気がしてきた。今まじでこんな気分です:

【HD画質】Z会TVCMまとめ 【初代~四代目】 - YouTube

もう受かる気しかしねーぜ!ふぁーっ!

俺史上最高の出来だけど、それでもきっと落ちてしまう申請書。

 日本には「学振」と呼ばれる、優秀な博士課程の大学院生や若手研究者に生活費を支給する制度が在ります。自分の研究について述べた申請書を書いて提出し、それを審査されて大体5倍くらいの倍率を勝ち抜けば、生活に困らない程度のお金を2~3年間貰う事が出来ます。まあ学振については調べてくれればもっと詳しく書いてくれているサイトが沢山在るんで、そっちを見てもらう事にして、今回するのは、この学振に関する俺の自分語りです。

 

 さて、博士課程の大学院生の場合、学振に応募する機会は、最大で3回有ります。俺の場合、1回目の頃は研究の「け」の字も頭に無い状態だったのでそもそも応募せず、2回目3回目には応募はしたけどかすりもせずに落ちました。*1そして、今年は若手研究者向けの方の学振に応募しようとしていて、その申請書をたった今、書き上げたところです。

 我ながら、本当に良い申請書が書けたと思います。体裁の為の上っ面の言葉が一切無く、一文一文が互いに繋がって「俺は何故この研究をしたいのか?この研究は将来に何の役に立ちそうか?」という事をまじで語っています。

 けれどまあ、今回も恐らく落ちる訳で、だからこそこの``素晴らしい''申請書が、半年後には「学振落ちの紙切れ」になってしまう事が、本当に悲しい訳です。少なくとも大学院生向けの方の学振には十分通りそうな出来だと思っているので、クオリティだけなら後輩とかの参考にも十分なり得るものだと思っているのですが、落ちてしまう以上、縁起が悪くてとても他人様に見せられたもんじゃない。と言う事で、自信が無い理由は簡単で、この申請書は飽く迄「学生にしてはよく出来ているレヴェルに過ぎない」からです。何より、俺には研究業績が圧倒的に足りない。俺は未だ、論文を3本しか書いた事が有りません。更に、3本とも(俺にしては中々に頑張ったと思ってはいますが)優秀な人達からしたら、まあ大した研究じゃないんだとも思います。*2つまり、結局は「文章として優れているだけのもの」が書けたってだけなんで、多分、ライヴァル達には数学でちゃんと負けちゃうと思うんですよね。

 「俺の数学は簡単過ぎる」みたいな事を言いました。これについて、俺は現在、博士課程3年の学生な訳ですが、俺が今持っている研究成果や、或いは今取り組んでいる研究って、どれも学部生とか修士課程の頃に出来たものだと思うんですよね。「じゃあ実際、てめえはその頃、何をしてたんだ?」って話ですが「偉い人達が``良い数学''と呼ぶものを盲信して、それ等を勉強する為に身の丈に合わない分野に特攻して、結局は2年近くを棒に振った」って感じです。*3だから、身の程を弁えて確りと自分に出来る基礎から勉強してさえいれば、きっと今の自分の研究成果を、先に述べた通り学部や修士の頃に確り出せたと思うんですよね。そう思うと、今回の申請書も大学院生向けの最初の学振に提出出来た気がしますし、それならきっと通ったと思うんです。勿論「痛い目に遭って初めて自分の身の程を知った」みたいなところ迄含めて俺の実力だった訳で、「だから俺はもっと出来た筈だ」みたいな主張をする意図は全く有りません。そうではなくて、「折角こういう経験をした訳なんだから、こいつを少しでも後進の人達の役に立てたい」と思うのです。「自分で経験して知るには何年も掛かる事であっても、人から聞いてしまえば一瞬」みたいな知識が、世の中には意外と溢れている気がしていて、この「身の程を弁えた数学との向き合い方」も、その内の1つである気がします。勿論、才能が有る人なら、自分の好きなものに思う存分チャレンジすれば良いと思います。また、そうではない人にも、決して「無理だから大人しく身の程に合った数学だけやってろ」なんて言い放つつもりは一切有りません。ただ、少なくとも「修士の内にこの大理論を勉強して、この内容で修論を書いて、学振も貰うんだ!」みたいなのは、まじで無謀なんで止めといた方が良いって事です。「いや長い数学人生なんだし、況してそんな大理論なら、ゆっくり勉強すれば良いじゃないか。そうして確保した時間で、現実的なものにも目を向けてみようじゃないか」って話です。「漠然としたネームバリューへの憧れではない、ちゃんと自分の手で触れる数学」をして初めて、研究とかに関して色々と気付く事も在る様に思います。

 てか、周囲の大学院生達を見ている感じ、やっぱ論文の様に目に見える成果として「自分はちゃんと数学出来てる」みたいなものが無いと、段々と病んでいってしまう人が殆どな気がします。なので、少なくとも何かしら関わりが有る後輩とかには、出来ればそうはなって欲しくないと思う訳です。ただまあ、これも結局は俺の気持ち悪い自己満足の押し付けに過ぎない気もしますし、やっぱ人とのコミュニケイションって、難しいですよねえ。俺って多分「``他人の為を思って行動する''って設定の自分」が好きなだけで、本気で他人の事なんて考えていやしないので、この辺はまじで「俺って人間性終ってるなー」って思います。*4

 

 いや話が大分逸れましたね。兎に角、「頑張って書き上げた``素晴らしい出来''の申請書が、誰の役にも立ち得ない只の紙屑になってしまうであろう事が、とても悲しい」というお話でした。

 

 

追記:

 何かあたかも「俺のやり方が正しい」みたいな言い方しちゃいましたけど、そんな風には全く思っていません。俺は結局「難しいものに正面から立ち向かう」という事を諦めてしまった人間なので、逆に「苦しみながら大理論に正面から立ち向かい続ける」という数学のスタイルを続けた末に成功した人からしたら、俺みたいな奴の方が研究者として間違っていると思われるんだと思います。*5

 俺が正にそうなんですが、(余程信頼している相手でもない限り)他人の話なんか基本的に聞く気になれないし、結局は各々自分が正しいと思うやり方をするしか無いんでしょうね。だって俺も大して仲が良い訳でも無い``偉い先生''から「ハーツホーンを読んでない奴が研究なんてけしからん!今直ぐハーツホーンにだけ取り組め!」とか言われても「五月蝿えばーか」としか思いません。但しまあ、流石に「ばーか」とは言いませんが「あなたとは考えが違うんで、仰る通りには出来ません」くらいは言える様になりたいですよね。向こうも向こうで、これ以上俺に関わっても時間の無駄だろうし、相手の事を思っても、です。

 あの、てかこれ俺の我儘なんですけど、若し俺から「考えの押し付け」みたいなのされて嫌だって人がいたら、まじで言ってください。それで恨んだりとか絶対にしません。寧ろ嫌がっている相手に色々言っちゃう事の方が遥かに嫌なんで、はっきり言ってくれる方が有り難いくらいです。他人の言葉の裏を読もうとする割に、まじで他人の気持ちが一切判らない人間なんですよね。いや本当、人間関係って難しいわ。ハーツホーンの半分くらいむずい。*6

 

追々記:

 「きっと落ちてしまう」という表現も、推薦書を書いてくださった先生方に凄く失礼な気がしてきました。本当にごめんなさい。でも、流石に「受かりそう」とは思えませんが、正直「ひょっとしたら間違って受かっちゃうんじゃね?」くらいは思っちゃってます。それくらい(自分の中では)頑張って書けたつもりなんです。いやでもこうやって一寸期待とかしちゃうと落ちた時にまたちゃんと傷付いちゃうんで、あーもーやだー。

*1:学振は落ちると順位を付けられて返ってくるのですが、2回とも真ん中くらいでした。倍率5倍なんで、話にならない順位ですね。

*2:俺的にはまじで趣味の良い研究をしていると思っているんですが、如何せん、数学の内容自体が少々簡単過ぎるんですよねえ。

*3:いや曲がりなりにも勉強してたってんなら未だましだったんですけど、実際には学部4年の半ばから修士1年の冬辺り迄の1年以上の間、もう本当に数学が嫌で嫌で仕方が無くて、殆ど何もしていませんでした。

*4:「○○な自分が好きなだけなんじゃないのか?」って自問を普段からし過ぎているせいで、最近は何が本当の自分の感情なのか、よく判らなくなってきてしまいました。しかし、こんな風に真面目に悩んでしまう自分の事もこれはこれで本当に大好きなので、もう如何仕様も在りません。

*5:つーか俺未だ研究者じゃねーし💩

*6:てかハーツホーンハーツホーン言ってるけど、実際俺が読めなかったのは上野先生の本です。況やハーツホーンをや。誰が(俺を)数学嫌いにしたのか。

「人を信頼する」という事について。

 ツイートしようかと思ったんですけど、長くなりそうなんでここに書きます。基本的にこういうのはワード(最近はテフかな?)で文章にして自分のパソコンの中だけでしまっておくのですが*1、今回の話は何処かしら人目に付き得る場所に書いてみたくなったので、そうします。

 

 先ずはタイトルの「人を信頼する」という表現について、ここ最近の俺の考えの変遷について整理しながら述べてみます(考えながら書くので、かなり行き当たりばったりだと思います):

 俺って最近迄「人を信頼する」という言葉の``定義''を「その人に``裏切られて``も許す」という風にしていたのです。しかしながら、こういう言い回しをしてしまう事自体が、結局、人から``裏切られる''可能性を想定している、もっと言えば、人から``裏切られる''事を恐れているからこそのものなのではなかろうか、と思った訳です。だって、俺は家族、特に両親を心から``信頼''していますが、今「両親を``信頼''している」という表現をした際、万が一にも、うちの父ちゃん母ちゃんが俺の事を``裏切る''なんて事を想定してはいないからです。その意味で、結局、俺が本当に``信頼''しているのは両親くらいのもんであり「俺って他人を信頼する事は出来ないのだろうなあ」なんて思ったりもした訳です。しかしながら、ここで注目したいのが、ずっと引用符を付けてきた通り、今度は「裏切る」という言葉の定義を確りせんとならんだろう、という事についてです。と言うのも、「人が人を裏切る」という行為には、大きく次の3通りが在ると思われるからです:

1. 裏切った側に悪意が有る場合;

2. 裏切った側に悪意は無くとも落ち度は有る場合;

3. 裏切った側に悪意も落ち度も無い場合。

このままだとやや抽象的ですので、具体例で考えてみましょう。例えば、「XがYからお金を借りる」とします。この時「端から返すつもりが無い、何なら相手を困らせる目的で``借りる''」という場合が、1に該当します。一方で「最初は返すつもりだったが、その後のXの計画性の無さや怠慢等が原因で、お金を用意出来ずに返せない」という場合が、2に該当します。そして「返すつもりで借りたが、病気等で返せなくなってしまった」というのが、3でしょうか。勿論、この区別も未だ未だ完璧ではありません。例えば:

・2の裏切りの理由も、「計画性が無い」と「怠慢」ではかなり別物でしょう(前者は単に頭が悪いだけだけど、後者は矢張りXの人間性の問題を孕んでいる様に思われる);*2

・1と2は(Y側から見た際の)区別が曖昧。つまり、Xが最初から悪意を持っていたのか否か、Yからは結局は判らない;

・2と3の区別も曖昧。つまり、先程「病気で返せない」というのは3の例として挙げましたが、その病気ってのが生活習慣病みたいに本人の不摂生に由来するものだったりしたら、2の「計画性の無さ」と区別が曖昧になってくる訳です。

とまあ以上、この区別が必ずしも完璧なものではない事は認めた上で、例えば先の自分の親の話で言えば、2, 3の裏切りは十分想定出来る訳で、その意味で俺の親への信頼は「2, 3の裏切りは許すけど、1の裏切りはそもそも想定していない」という種類の信頼と言えるでしょう。あーてかそもそも1, 2, 3の区別が曖昧な中で「1の裏切りは想定していない」という風に思っている事こそも、相手への信頼の度合いと言って良い気がしてきました。つまり、自分がYになったと思い、終ぞXが金を返さなかったとして、その裏切りが2と3(或いは1と2)の区別が付かない時に、Xは2と3(或いは1と2)のどっちの裏切りをしたと見做すか、という事が、正にYのXへの信頼度合いを表している様に思います。俺の場合で言うと、仮に親から(傍から見たら)1と2の区別が付き難い裏切りを受けた場合、俺は無条件に2だと見做す、という感じですかね。即ち:

・如何いう裏切り迄なら許すか;

・如何いう裏切りかの区別が付き難い裏切りを受けた場合、ポジティヴに解釈し易いか、或いはネガティヴに解釈し易いか,

という2つの点が、相手への信頼度合いを示していると言えるでしょう。後者について言えば、自分から相手への好意の他に、相手の能力等の高さへの評価も判断材料となり得るでしょう。例えば「俺はYを個人的には余り好きではないけど、でもYはそんな事をする様な卑劣な人間ではない」みたいな判断の仕方も、十分在り得ると思うのです。

 ここ迄くると、かなり整理されてきた様に思います。そして、俺に関して言えば、矢張り親並みの信頼を寄せられる人間ってのは、この先、恐らくは出てこないだろうとは思いますね。それは単にこちらの頭の中での好意だ何だだけの話ではなく、相手の立場も考えての事です。つまり、大体の人は先ずは1番可愛いのは(俺同様)自分だろうし、そうでないとしたら、その愛情が向けられる対象は、矢張り家族なのだと思われます。他人は所詮、他人でしかないのです。ですがこの「他人は所詮、他人でしかない」という考えは、別に全然、ネガティヴなものではない様に思います。だって、仮に他人に対して家族以上の信頼を寄せる様な人間がいたとしたら、それはもう信頼なんてものではなく、単なる依存でしかない気がしますからねえ。

※あーいやてか何か言葉遊びをし過ぎて混乱している感じがしますね。結局、上で言う``裏切り''の内、悪意なり人間性の問題なりが在るものだけが、一般的な意味で言うところの「裏切り」ですかね。後は「裏切りかそうでないかが曖昧なものを、裏切りであると判断し易いか否か」という事ですね。いやー本当、文章にすると色々とスッキリしてきて良いですねえ。ついでに「こんなに沢山文章を書ける俺」にも酔えますし♪ っつー事で以上、纏めると:

・悪意や人間性の問題なりが有った上で、こちらに不利益を生じさせる行為を「裏切り」と呼ぶ;

・「他人に対する信頼」の定義は、「裏切りを1度に限り許す」とする(系として、1度裏切った相手は、許しはしてももう信頼はしない);

・裏切りかそうでないかが曖昧な行為をどちらと判断し易いか否かも、相手への「信頼度合い」を表している;

・家族等一部に対する「信頼」は、そもそも裏切りを想定すらしていない;

・では他人への「信頼」の定義は、暗に裏切りを想定した(恐れた)ものという事にはなるが、「他人は飽く迄、他人である」という大前提を考えれば、これは必ずしもネガティヴなものではない;

・矢張り俺は俺の事が好き。

 

 と言う事で、以上、書いている間に段々と俺は頭の中は整理されて満足してきたのですが、満足ついでに最後に自分語りもしておきましょうか(俺は兎に角、俺の事が好きなもんで):

 そもそも、何で俺はこんなに親を信頼しているのかって話なんですが、1番の理由は、小学生の頃、夜中にでかい地震が在った時に、うちの親は真っ先に俺(と妹)を守ろうとしたんですよね。子供ながらに「この人達って、俺達の為なら「自分の命を投げ出す」という判断を瞬時にする人間なんだ」と感動した覚えが有ります。これが間違い無く、俺の両親への全幅の信頼の1番の理由です(勿論、これだけでは全くなくて「28歳(2021年4月現在)にもなって仕送りを続けてくれている」とか他にももっと色々在る訳ですが、余り話過ぎると長くなるんで、ここではこれだけで)。しかし、最近思うのは、この出来事は俺の「人を愛する」という事への呪縛になっている気もするという事です。と言うのも、俺は俺自身の事がもう本当に可愛過ぎて、うちの親が俺に対してして見せた「自分の命を投げ出す」というレヴェルの愛情を自分以外に向ける自分を、全く想像する事が出来ないのです。勿論、世の人々を見るに、自分の中に「潜在的な他人への愛情」なんてものが有ると事前に見極めた上で結婚だの子供を作るだのする人間は殆どいない訳で(恐らくはうちの親もそう)、その意味では俺も「結婚してから/子供が出来てから変わる」という可能性も在る気はするのですが、それにしても俺は本当に自分の事が可愛過ぎて仕方が無い。そして「子供よりも自分の方がずっと可愛い」という``親''は、矢張りそれなりに見苦しい気がするので、そうはなりたくはない。うーん童貞拗らせ過ぎているんですかね?自分じゃもう全く判らん。

*1:勿論、これは「こんな几帳面な俺を皆知って」アピールです。

*2:ここで「頭が悪い」という表現も、矢張り定義が難しいです。つまり、一般に「頭が悪い」という表現は相手へのかなり強い馬頭である訳ですから、寧ろ人間性が劣っているという人間にこそ言い放ちたくなる訳です(と言うか俺は普段、人間性が劣った人間への攻撃として使う場合が多い)。但し、これも話し出すとまた長くなりそうなんで、ここでは余り触れない事にします。

2021年度春学期代数学I.

 今年もしこしこやっていきましょうかねえ。

 取り敢えず、例年通り演習問題の解答を作っていきます(毎週更新):演習略解.pdf

 演習問題は去年と大体同じになるっぽいんで、去年のページも参照しておきます。

 

※オンラインって事で全問題の解答を正式に配布しようって事になったんで、ここでの解答の更新は停止しますね。配布するのはレポート提出後の予定なんで、少々お待ちください。

 

 後は、講義で使われる教科書(堀田先生の代数入門)は、数学的にはとても良い本で、読めるのならこれを読んでおけば良いのですが、恐らく初学者にはまあまあ難しい気がするので、代替本を幾つか紹介しておきます:

・中島匠一先生「数論と代数の基礎」共立出版
 俺が初めて読んだ代数の本です。定義導入の動機付け、定義や定理の使用上の注意、証明の記述、どれを取ってもかなり丁寧です。(数学科の学生なら)ほぼ万人に合う気がしますが、章分けが少し独特で(初等整数論→環論→群論)、講義と併用するには一寸工夫が必要だと思います。学校の先生を目指す人なんかは、前期で環論と群論を読んで、夏休み中に初等整数論の章を代数の言葉に翻訳しながら読んだりすると、とても良いと思います。演習問題の解答は本には載っていないですが、リンク先の共立出版のホムペに在ります。後は、アマゾンで低評価が幾つか在りますが、代数を勉強する資格が無い人(高校数学を理解していないレヴェル?)が付けたものだと思われるので、数学科の学生なら無視して良いでしょう。
 
・川口周先生「代数学入門」日本評論社
 定義定理の使用上の注意も、証明の記述もとても丁寧です。例が凄く豊富且つ丁寧で、理解の助けになると思います。代数II以降の内容にも触れられていて、中島先生の本に比して、専攻決定以降も代数を使うかも知れない人向けだと思います(勿論、自分で目を通してみて記述が気に入った方を優先してください)。暗号とか符号の話にも触れているので「代数やりたい/好きだけど純粋数学オンリーはちょっと怖い」みたいな人にも良いと思います。特に九大だと需要が高そうですよね。因みに、この本は九大図書館のホームページで無料でダウンロード出来ます。
新妻弘先生、木村哲三先生「群・環・体入門」共立出版
 定理の証明が凄く丁寧です。レイアウトが凄く読み易いです(レイアウトを気に入るか如何かは実はモチヴェイション維持の上でかなり重要である事が統計的に実証されている)。中島先生や川口先生の本と違って、動機付けとか使用上の注意みたいな手取り足取りの説明は余り無いですが、寧ろこういう本の方が好きな人もそこそこいるのではないかと思います。例題や演習問題も豊富で、高校の教科書みたいな本です(リンク先のアマゾンのページで中身が結構見られます)。
 
・野﨑昭弘先生「なっとくする群・環・体講談社
 (恐らく)非数学科向けに、兎に角、具体例等の動機付けを丁寧に挙げながら、代数Iで扱う「群・環・体」について解説しています。この本だけでは代数を習ったとは言えませんが、如何しても苦手で「取り敢えず講義を聴ける様にする為に何とかならないか?」みたいな本を探している人には、ひょっとしたら良いのかも知れません。集合とかも最低限の事は初めに纏まっているみたいです。
 
・石井俊全さん「ガロア理論の頂を踏む」ベレ出版。
 「ガロア理論」とありますが、代数Iの内容と、更にそれに必要な集合論線型代数についても丁寧に書かれています。アマチュアの方が書かれた本で、正直、数学的に気に入らない記述が色々と在るのですが、兎に角、説明や例や例題が大量に書かれており、また非数学系の愛好家みたいな人達からの評判がとても良いみたいなので、如何しても苦手って人は、検討してみても良いのかも知れません。まずい表現等は、演習発表やセミナー発表で叱られて直せば良いでしょう。
 とても分厚い本ですが、それは兎に角、説明が沢山書かれているからであり、内容はそんなに多くはありません。本書が扱っている``ガロア理論''についても、代数IIIで習うそれのスペシャルケースに過ぎません(より正確に言えば、考察対象を\mathbb{Q}の有限次拡大に限定している)。