予備校講師採用試験に2回落ちた九大チンカス研究員の入試数学語り。

毒舌、下ネタ注意。※年々自信を失い、それに伴って毒もマイルドになってきています。

入試数学への興味。

 今気付いたんだけど、今年、大学への数学の22年入試のレヴュー読みに行ってねえわ。こんなブログやっててあれだけど、何か多分もう、まじで入試数学に興味無いんだと思うわ。だってノースコットナンバーの評価をする方が(俺の中では)遥かに価値が有って格好良いんだもん。入試数学は他にやっている人沢山いるしね。

 学歴が如何でも良くなってきた事も関係在るかも知れねえ。明らかに肩書よりもその人個人の能力とか人間性の方が興味が有るし、となると18,9歳の頃の一時的な(それも学力だけの)指標に過ぎない出身大学名って、基本的には後者よりも前者に近いものな気がするしねえ(勿論、出身者全体で平均を見れば、人間性やら含め明らかに相関は在るだろうけど)。昔はFランと見下していた理科大とかマーチの人で、俺よりも遥かに数学出来て人としても立派な人を何人も知っています。結局、大学入ってから如何過ごすかですよね。

 但し「如何でも良くなってきた」とは言ったけど、矢張り一般論として、大学行くならまあまあの所には行った方が良い気がします。これは肩書云々じゃなくて、周りの友達とか指導体制とかを考えての話です。特に大学にちゃんと勉強しに行きたいのなら「勉強出来るってすげー」みたいな価値観が多数派のとこに行かないと、色々としんどい気がします。これが当てはまるのが具体的にどの大学なのか、俺にははっきりとは判りませんが(取り敢えず九大は該当していると思う)、まあ例えばオープンキャンパスとかって、こういう大学の雰囲気を知る為に使うってのが賢かったんだろうなあ、って最近は思います。

 

※東大京大九大だけは来年以降もちゃんと解きます。8年も続けてきたしね。

数検1級の問題?

 友達から直近の数検1級?の問題を出題されました。先に言っておきますが、俺は解けなかったし自力では一生解けなかったかも知れない類いの問題です:

 f(X)を全ての係数が非負の整数係数多項式とする。整数m,nを自由に選び、f(m), f(n)の値を見る事で、f(X)を決定出来る事を示せ。但し、nf(m)の値を見てから選んで良い。

 

(解説)

f(X):=a_dX^d+a_{d-1}X^{d-1}+\cdots+a_0とします。例えばm:=1, n:=f(1)+1とする事で、以下の様に特定出来ます。つまり、全ての係数が1以上であるという仮定からa_i\leq f(1) \lt n \ (0\leq {}^\forall i\leq d)であり、従ってf(n)=a_dn^d+a_{d-1}n^{d-1}+\cdots+a_0は、右辺が左辺のn進法表記になっている事が判ります(この「n進法表記である」ってとこに0\leq a_i \lt nが効いている。てかnf(1)よりでかけりゃ何でも良いとも判る)。なので、n進法表記の一意性から、左辺のn進法表記を計算する事で係数a_iは全部判る。

 

 

 俺は「(非負整数係数)多項式に(デカい)整数nを代入するとn進法表記に見える」というのが定石として頭に入っていなかったので、自力で解くにはここを運や頭の良さで突破する必要が在りました。なので、これは下手をすると一生解けない危険性も在った問題だと思います。大学入試の問題は基本的に既知の定石を組み合わせれば解けるものが殆どなので、(俺にとっては)それ等とは質的な難しさが全然違う問題でした。でも青文字の定石、思えばネーターの正規化定理(下記pdf参照)の証明で似た考えを使ってるんで、定石として頭に入れていなかっただけで、知ってはいたんですよね。勉強の詰めの甘さが出たと言うより有りません。と言うか、``多項式表示=テイラー展開''であり、整数論では整数n素数pに対して``\text{Spec}(\mathbb{Z})上の正則函数n\in\mathbb{Z}の点(p)\in\text{Spec}(\mathbb{Z})に於けるテイラー展開=np進法展開''なので、``多項式=進法展開''が連想出来ないってのは、一寸修行不足な気がしてきたわ。

 

ネーターの正規化定理(昔書いたpdfだから色々とダサいかも)

数学の「解る」とサイエンスの「解る」の違い。

 話を引っ張って恐縮なのですが、先日の某ドキュメンタリーに関連する話題です。あれについて「宇宙数学について``解った''」みたいな発言をしている人が見られたり、或いはユーチューブで「宇宙数学について``解説''します」なんて動画がわいたりしています。結論から言えば、あの番組では数学の解説は一切成されていないし、またその手の動画に数学の解説は一切含まれていません。なのに何故、この様な発言や動画がわいて出るのか、少し考えてみたので、それを書いてみます。

 恐らく、世の中の多くの人が「数学の理解」と「サイエンスの理解」を混同している事が原因なのではないかと考えられます。

 先ずは後者「サイエンスの理解」について、(人類が実行可能な)サイエンスは基本的に、観測結果を基に、帰納的に理論を構成します。ここで、この「観測結果から帰納された理論」が真に正しいか如何かを確かめる術を我々人類は持ち合わせておらず、(常に疑いの目を向けつつも)基本的には「理論部分の正しさは信じて、それを基に理論展開を行っていく」というのが、サイエンスの基本的な流れであると思います。*1なので我々一般人がサイエンス(理科)を学校で習った際には、(尤もらしい説明は色々と在ったかもだけど)最終的には教科書、参考書、教師の文言を信じるより他無かった訳です。*2即ち、我々人類に実行可能なサイエンスは、最終的には「帰納的な知を盲信する事」へと帰結され、これが我々のサイエンスに対する「理解」となります。

 一方で、数学は原理的には1行1行の正しさを全て自分で確認する事が出来ます。*3定理や公式には全て証明が付いていますし、何なら理学部数学科では「定義が定義になっているか?」っつーとこ迄疑って、確認作業をおっぱじめたりします(所謂「well-defined」の確認)。これが数学に於ける本来の「理解」です。しかしながら、多くの人はこの「数学の理解」を終ぞ身に付けずに学校教育から離れてしまっているのではないかと推察します。即ち、定理や公式の正しさを「自分で正しさを確認すべきものである」と認識せず、単に「教師が正しいといっているから正しい」というレヴェルの``理解''で終え続けてしまっている。つまり、先の「サイエンスに対する理解」と同様の方法を、数学に対しても適用してしまっている。「証明」の概念も「自分が正しさを納得する為の確認作業」ではなく、時速を求めたり方程式を解いたりするのと同列の、単なる「問題の形式」程度の認識しかされていないのではないのでしょうか。これが、自分が思う「解っていないのに``解った''と主張する系の人間」が発生する原因なのではないかと推察します。即ち、彼等は本当に解ったつもりでいて、その根拠は「ネットで調べたらそう書いてあるから」「沢山の専門家がそうだと言っているから」なのです。

 「数学の理解」に対する誤った認識が流布している事、これは明らかに我々数学側の人間に責任が有り、そして(現状の)我々の敗北でもある様に思われてなりません。

 

 以上、考えた事の言語化を何とか図ったのですが、段々と自分でも何言ってんのか解らなくなってきた。未だちゃんと考察を言語化出来てねえ。

 

追記: 

 思えば俺は、数学のこの「正しさを自分だけで確認する事が出来る」という部分にも、大いに惹かれてきた気がします。ずーっと(心の中で)教師達を馬鹿にしてきた人生だったので、彼/彼女等の言う事を単に信じる事がとても嫌で、しかし数学は唯一、この「教師の発言を信じる」という事を一切放棄しても展開する事が可能な教科でしたからね。

*1:勿論、その「帰納的に構成された理論」に``尤もらしい''説明を付ける事は出来得るし、実際に成される事が多いでしょうが、その``尤もらしさ''も、結局は(膨大な)観測結果に基く「帰納的な知」からくるものに過ぎません。後は「帰納的な知」を基にした``尤もらしい''予想も、サイエンスには含まれているんですかね?全然知らないから嘘かもだけど、恐らくは相対性理論とかビッグバンとかは、これなんじゃないですかね?

*2:まあ或いは、専門書を紐解いたり自分で実際に観測をしてみた人もいたかもだけど、結局は「帰納的な知」である事に変わりはありません。

*3:勿論、集合論の根本的な話とかは俺等も深く考えずに直観に基き信仰したりはしますけど。

「にわか」に対するネガティヴな感情を、NTR属性によって解消する事を目指す。

 先日、数学のとある有名な予想に関するドキュメンタリー番組が報道され、その予想の名前をツイッターで検索すると、まあ自分を``頭良く''見せようとしているであろう判った様なツイートが溢れていて、漠然とした不愉快な思いをする訳です。最近のこの手の連中は少々手が込んでいて、``見ていて全然わからなかったけど…''なんて言って少し謙虚振っているのが余計に腹が立ちます。これは「とは言っても私より全然理解しているのだろうなあ、やっぱ頭良いなあ」みたいな読み手の「好意的勘違い」を期待しているものと見て、ほぼ間違い無いでしょう(自分にもブーメランが飛んでくるかも知れない)。

 さて、この怒りは明らかに、一般論である「にわかに対する怒り」に他なりません。要は、自分が好きで他人よりも時間を掛けて取り組んでいるものを、何も知らない人間が「単に自分を大きく見せる為だけの手段」として用いている事に対する怒りです。もっと抽象化すれば「自分が大切にしているものを雑に扱われた事」に対する怒りです。これは少なくない人々に共感してもらえる類いの怒りだと思います。*1しかしながら、一般論として、コンテンツが成熟していく為には広く大衆に浸透していく事が不可欠ですし、その過程でにわかが生まれる事は、人類の性質上、絶対に避ける事は出来ないものであると思います。従って、一方で数学の社会的発展を願う我々数学関係者としては、この「にわかの発生」を甘んじて受け入れるより他無い訳です。そうなると、自らの精神衛生と鑑みて、この「にわかに対する怒り(もっと言うとネガティヴな感情)」は、自分の考え方の変更のみを以て何とか克服しておきたい。ここで個人的に注目したいのが、エロコンテンツを中心にマイナー性癖の中ではメジャーな性癖としての地位を確立しつつある「NTR属性」です。

 非専門家向けに、この「NTR属性」について極々簡単に解説しておきましょう。「NTR」とは「寝取られ」の略であり、即ち「NTR属性」とは「自分にとって大切な人(多くの場合はパートナーや片想いの相手)が自分以外の人間によって(主に性的に)蹂躙される事にエクスタシーを覚える」という性癖の事です。何を言っているか全く解らない方もおられるでしょうが、兎に角、こういう倒錯した異常性癖を抱える人間が、世の中には存在するのです。何を隠そうこの岡﨑も「NTR属性」に対して一定の共感を覚える人間です。そして、先の「NTR属性」の解説文の前半部分は、直ちに「自分が大切にしているものを雑に扱われる事」と抽象化する事が可能です!*2そうなってくると「数学にわか達が、数学を単に「自分を大きく見せる為だけの手段」として用いている事に対する怒りも、克服するどころか、何ならエクスタシーに変換する事すら可能なのではないか?」とか一寸思えてくる訳で、忘備録としてブログに書いてみました。

*1:しかし一方で、こういう怒りを抱いてしまう事が、人としての器の小ささや、或いは自分自身のそのコンテンツに対する何らかの後ろめたさ(例えば「他ならぬ自分自身も、そのコンテンツに真に真面目に取り組んでいない、という自覚が有る」等)を反映しているのだとも思います。

*2:この抽象化は、以前、とある異常性癖マスター(今はドクター)の方との対談中に指摘していただいたものである事を補足しておきます。

自分の性格の悪さを文章化するぞ!

 日々生活していて、自分の性格の悪さに自己嫌悪を覚える事が多いのですが、それだけで終らせるのは何か勿体無い気がしてきたので、そう思う度にちゃんとそれについて分析/文章化して纏めてみる事にしました。その内、公開するかもです。

 因みに、俺は基本的に俺自身の事が好きなのですが、それは主に「(理性によって)後天的に身に付けた(と思われる)特性」「(好きな両親に似ている)自分の顔」の2つであり、先天的な(つまり非理性的な)自分の性格に対しては、吐き気がする程の嫌悪感を覚える事が多いです。恐らく俺の生まれ付きの性質は、「隙在らば自分語り」「説教おじさん」「匿名悪口嫉妬おじさん」みたいな極めて低俗且つ極々一般的な小者であると思われます。但し、こういう汚い自分をちゃんと理性によって嫌悪する自分の事は好きです。という事で、好き序でに「ちゃんと自分の汚い所を文章化する」という他の人があまりしなそうな事ををちゃんとしようと思った次第です。

友達から紹介された問題。

 友達から横国後期の大問4を紹介されました。問題は以下をご覧ください:

"横国後期 理系数学です良ければ解いてみて下さい… "

※1, 2, 3, 5はそんなに難しくないのではないかと思います(少し手を動かしたりして雰囲気を掴んだりはしたけど、真面目に解いていないので細かい部分は判らない)。

 

 中々気持ち良く解けたので少し解答を書いてみます。

先ず(2)は \mod 2, 4して考えれば

\begin{cases}a=2{}^{\exists}m+1, \\ b=2{}^{\exists}n\end{cases} 

と判り、また(3)は直前の式で1, \sqrt{5}の係数が各々0になる事が必要である事から、特にX=2(a+1) と判ります。

 問題は(4)です。先ず示すべき事は

\sqrt{X}\text{ or }\sqrt{\frac{X}{5}}\text{が整数}

\Leftrightarrow X=(\text{平方数})\text{ or }5(\text{平方数}) 

です。ここで、

X=2(a+1)=2(2m+2)=2^2(m+1) 

である事から

m+1=(\text{平方数})\text{ or }5(\text{平方数})\quad\cdots\text{(☆)} 

を示せば十分であると判ります。ここで、

a^2-5b^2=1 

\Leftrightarrow (4m^2+4m+1)-5\cdot4n^2=1 

\Leftrightarrow m(m+1)=5n^2 \quad \cdots\text{(★)} 

であり、mm+1は互いに素である事から、(★)の素因数分解を考える事により(☆)が判ります。

 

 さて、見ての通り題材はペル方程式なのですが、解答の通りペル方程式の知識は一切要らない常識的なディオファントス方程式の問題です。寧ろ下手に\mathbb{Z}[\sqrt{5}]での因数分解とかを意識すると、余計な議論をして時間を食ってしまいます(しました)。っつー事で、「中途半端な``範囲外''の知識は却って邪魔に成り得るよ」という警鐘として良い問題かと思い、紹介してみました。

``数学的思考''について。

 頭の中で言語化されたので一寸文章化しておきます。因みに、この記事で「数学的思考」「非数学的思考」と呼ぶものは、恐らく「演繹的思考」「帰納的思考」と読み替えても大丈夫だと思います(寧ろこちらの方が一般的?)。

 

 例を挙げましょう。例えばプログラミングをしていて、コンパイルをしても上手くいかない。この時「プログラム1行1行の構文の役割をちゃんと確認し、上手くいかなかった理由をちゃんと突き止めた上でそこを修正する」というのが「数学的思考」、一方で「取り敢えず色々と書き換えてみたりして再度コンパイルし、上手くいったからそれでOK」というのが「非数学的思考」に近いと思われます。即ち「自分の行為1つ1つの理由をはっきりさせながらする思考」が「数学的思考」であり、「理由はさておき取り敢えず色々試してみて、上手くいけばOK」というのが「非数学的思考」でしょうかね。ここで1つ注意しておきたいのは「このテンプレートは正しいと認めて中身を確かめずに使う」というのは、この「自分はこのテンプレートの正しさを確認していない」という自覚をちゃんと持っていれば、数学的思考に於いて許される行為だと思っています。但し、これを完全な数学的思考と呼んで良い事の前提として「信頼出来る第三者によって、このテンプレートの正しさを数学的思考によって保証されている事」を課しておく事にします。

 

 さて、この2つ、恐らく実生活では明確な優劣は在りません。前者に拘っていると「遅い!」と叱られる事も在れば、後者でいって「ちゃんと自分で考えなきゃ駄目じゃない!」と叱られる事も在るでしょう。ここで、あらゆる自然科学は、原理的には完全な数学的思考のみには成り得ないと思われます。と言うのも(「「リンゴが落ちる」という事は正しいと認めて中身を確認せずに使う」というのは、先の定義により数学的思考と呼んで良いのですが)、人類は最終的には「リンゴは必ず落ちる」という事を数学的に証明する事が出来ないからです。「自然現象のルールを(観察等の)非数学的思考により予想し、その予想を正しいと認めた上で数学的思考による議論を積み重ねる学問」を「自然科学」の定義だと思って良いと思います(と言うか俺はそういう認識です)。一方で、数学でも「多分こんな感じだろう」みたいな非数学的思考による議論を行う事も(特に研究段階では)沢山在ります。ですが、こうした非数学的思考による議論は、いつかは必ず数学的思考による議論によって正当化される必要が在ります。この過程を経て初めて確たる価値を持った「定理」が生まれ、一方でこの過程を経ていないものは「予想」と呼ばれます。予想も(数学コミュニティの主観的な判断によって)十分な評価を得る事が在りますが、一方で単なる当てずっぽうを書き連ねているだけでは、矢張り評価される事は殆ど在りません。「数学者」と「トンデモ数学者」の大きな違いの1つは、この「数学的思考」「定理」と「非数学的思考」「予想」の区別が付いているかいないかだと言って良いと思います。「ラマヌジャン」という有名な数学者がいるのですが、彼は非数学的思考によって数学界の1つの頂点に到達した極めて稀有な例と言って良いと思います。数学の自然科学との大きな違いは「最終的な成果物が数学的思考による議論のみによって達成されている事」と言って良い気がします。この定義により、俺は「統計学」は基本的には数学ではなく自然科学と言うべきなのではないかと思っています。

 

 さて「数学的思考と非数学的思考に優劣は無く、また数学に於いてすら非数学的思考は十分な価値を持ち得る」という話をしましたが、その上で俺は「数学科という所は前者を身に付ける場である」と信じています。なので、後者の能力がどんなに高くても、前者を身に付けていない人間は矢張り評価されるべきではないと信じています。どんなに講義で扱う内容のレヴェルが低くなろうとも、これだけは理学部数学科が絶対に妥協してはならない最後の砦であると信じています。