予備校講師採用試験に2回落ちた九大チンカス研究員の入試数学語り。

毒舌、下ネタ注意。※年々自信を失い、それに伴って毒もマイルドになってきています。

「原理的な難しさ」と「現実的な難しさ」

 「数学とサイエンス、どちらの方が``難しい''か?」というのは、数学側、サイエンス側のどちらの陣営でもしばしば議題に挙がるのではないでしょうか。数学側(の多く)は「自分達の方が高尚な事をやっている」という優越感や「社会の役に立たない」というコンプレックスをサイエンスに対して抱き、一方でサイエンス側(の多く)は「自分達のやっている事は社会の役に立つ」という優越感や「でも実は数学苦手だった」というコンプレックスを数学に対して抱いたりしがちなのでは、と予想します。この表裏一体の優越感とコンプレックスが、実は先の質問に答える上でヒントになるのではなかろうかと予想します。

 ではここで「サイエンス」という用語の(ここでの)定義を確認しておきましょう。定義は「原理的な」「現実的な」という2つの形容詞付きで2通り与えます。先ず、原理的な意味での「サイエンス」とは、我々が一般に想像する「世界の現象の原理を知る為の学問」の事です。しかしこれは現実的に人類には絶対に実行する事が出来ません。「何でリンゴは落ちるの?」「それは地球に重力が有るから」「何で地球には重力が有るの?」「(質量を持つ)物体は必ず引力を持ち、地球のそれを重力と呼ぶから」「何で物体は引力を持つの?」「それは…」「そもそも何で引力が在るとリンゴが落ちるの?」「…」という様に、人類が実行しているサイエンスは、最終的には「何故?」という質問に答えられなくなります。ここで、存在するであろう「世界の現象の原理」と「「何故?」に答えられなくなった地点」との間を埋めているのが「観測による帰納的な知」です。つまり「惑星を含む多くの物体を(様々な方法で)観測してきた結果から「如何やら、全ての物体には他の物体を引き付ける``不思議な力''を持つらしい」と現象の原理を予想し、それを正しいと信じて展開していく」というのが、人類が現実的に実行可能なサイエンスであるといえます。即ち「現実的なサイエンス」とは「観測により世界の現象の原理を予想し(帰納的知)、それを正しいと信じて展開していく学問」となります。ここで「予想された原理を基に理論を展開する段階」は恐らく(数学と遠からぬ)純粋な知力(≈学力)によりなされる部分であると思われる一方で「原理を予想する段階」には知力以外の能力/要素が十分に介在する余地の在る部分なのではないかと予想します。それは例えば、(主に財力に由来する)研究者が使用可能な観測器具の質や量であったり、或いは個人の観測技術であったりです。時にはったりをかまして他者を自分の理論を支持する陣営に引き入れる能力も重要でしょう。*1この様に、純粋な知力以外の能力が介在している部分に対して、数学側は先の様な優越感を抱いてしまうのではないでしょうか。しかしこの点に関して言えば、先の様に「純粋な知力以外」と言うとややネガティヴに聞こえてしまいますが、裏を返せば「現実のサイエンスの方がより多様な戦い方が出来る」とも言える気がします。また「予想された原理を基に理論を展開する段階」についても、理論展開の厳密さや高度さを重要視する数学に比して、サイエンスは恐らく(現実に即してさえいれば)理論展開の厳密さや高度さを必ずしも最重要視する事は無いと思われるので、ここも数学側からのマウントの標的にされがちな点なのではないでしょうか。要は興味が違うだけだと思うのですが…*2「サイエンスの人達が使ってくれるお陰で数学は社会との繋がりを持て、一方でサイエンスの人達が安心して使える様に細かいとこは数学側で気を遣わないといけない」って感じですかねえ。持ちつ持たれつな訳で、マウント合戦や劣等感の表明は不毛な気がします。

 さて、サイエンスの定義を厳密にした事で、当初の疑問に対する(俺なりの)解答に近付いてきた気がします。即ち、数学には「原理的な」「現実的な」という区別をする必要が(ほぼ)無いからです。と言うのも、数学は公理や定義(=原理)を初めから自分達で設定する学問であり、展開方法はそれ以降の理論展開のみがであるからです。*3即ち、1行1行、全ての議論を真実であると確認しながら進行する事が出来ます。*4

 以上の議論を基に、当初の疑問に対して以下の(現時点での俺の)解答を与える事にします:

・数学と「原理的なサイエンス」では(人類に実行可能であるか否か、という意味で)数学の方が遥かに簡単である。

・しかし、簡単であるが故に人類の手でどんどん理論展開出来てしまい、結果として(多くの個人にとって)難しく感じられるものになってしまう。即ち、数学と「現実的なサイエンス」では(後者の「純粋な知力以外の要素が大いに介入し得る」という性質も手伝って、)少なくとも純粋な知力のみでの比較では数学の方が難しい。裏を返せば、「現実のサイエンス」の方が総合力で戦える。

 

 いや興が乗って普段頭の中だけで考えている事を色々と書いてみたけど、ちゃんと伝わるものとして言語化出来ている気が全然しねえ。

 

追記:

 幾何学(や一部の解析学)、統計学は多くの場合、数学の一分野と見做されます。しかしこれ等の学問は、実在する物体の形やデータを基に、それ等との整合性を常に気にしながら展開される分野であると思われます。従って、サイエンスと数学の境界に位置する分野であると考えられ、そして両者の難しさを(``÷2''される事無く)包含するものであると思っています。なので、これ等の分野を本当にちゃんと展開しようとすると、(純粋に数学側の分野である)代数や数論よりも遥かに難しいのではないかと信じています。従って、俺は現実の会話で「幾何学は難しい」という旨の発言をよくします。

 

(引用)

スカイプやディスコードでの友達との駄弁り。

*1:これに関しては、数学でも研究費集めたり引用数増やす上で重要だとは思いますけどね。

*2:ところで、人類の観測技術の発展に伴い過去に「正しい」とされていた原理が覆される事もしばしばであり、その意味で「現実的なサイエンス」は「流動的な学問」であると言えるでしょう。

*3:勿論、設定した公理や定義が人類の間で流行るか否かは大いに現実的な問題ではありますが、それは学問自体の本質に何ら影響は無いでしょう。

*4:基礎論の話は俺もよく解らないので気にしない事にします。

身体能力が高い女の子。

 俺は身体能力が(出来れば俺より)高い女の子が好きだ。一緒に運動をしたい。しかしこれには多くの場合、かなりの筋肉が必要になると思われる。筋肉が似合う女の子なら良いのだけど、残念ながら(俺の主観で)その様な女の子は殆どいない(具体例の存在は確認している)。「見た目は極々普通の女の子だけど、身体能力は極めて高い」みたいな女の子がいてくれると嬉しいのだけど、これは(筋肉が似合う女の子より)更に珍しいと思う。幸いな事に、俺にも、例えば長距離走、水泳、天地逆転系の体操種目、バドミントン等、苦手な身体操作が幾つか有るので、こういうものに限定すれば、俺よりも優れた能力を持っている女の子もそれなりにいる筈だ。そういう子と一緒にその種目の練習をしたい。

 ところで、俺は中高でバドミントンをやっていたのだけど、その時期の「頭を使わずに身体を動かす」という習慣の下で生まれた種々の良くない動きが身体に染み付いてしまっているので、寧ろ能力は低いと自己評価している。機会が有れば矯正したいと考えているのだけど、現状、その予定は無い。時に、(これは一般的な主張を意図したものではなく、単に俺の経験則からくる感想なのだけど、)バドミントンが得意な女の子には、怖い子が多い気がする。尤も、これはバドミントンが俺の中で少なくない重要性を占めていた頃の感想なので、改めてバドミントンを1から始めるという立場で見たとすると、また違った感想を抱くかも知れない。

「この人からは嫌われてもいい」という人リスト。

 自分の中に在る(恐らくかなり不健全な)防衛機制の1つをはっきりと言語化する事が出来たので、記録しておきます。恐らく俺はこれ迄、自分の中に「「この人からは嫌われてもいい」という人リスト」を無意識に作っていて、そこに入っている人間から嫌われる事は気にしないできました(という立場を取ってきました)。一方で、俺はリスト外の人から不意に嫌われる事をとても恐れてきました。だから人に嫌われていそうと自分が思い込んでしまった時、「自分は嫌われている」という事をはっきりと認識してしまう前に、その相手をリストに入れてしまう事で、心理的自己防衛を図ってきたのだと思います。そして俺はこのリストに入れた人間とは、基本的に一定の距離を置いてきました。

 今回、或る出来事が原因で、とあるとても尊敬している奴をこのリストに(無意識に)入れようとしていました。そしてこれを切っ掛けに自分の中で違和感を覚えた事で、この悪しき防衛機制言語化する事が出来ました。若しこれをせずにそいつをリストに入れてしまっていたら、恐らく未来の俺はとても後悔し得たのではないかと思います。思い返せば、リストに入れるべきではなかったのにそうしてしまった人も何人か思い当たります。

 俺は(或いはその風貌とは裏腹かも知れないけれど、)とても神経質で小心者で他人の目を気にする人間です。ここ何年か(リストを無意識に作っていた事に由り)「他人から嫌われても気にならない」という事が何回か有り、そのせいで``他人の目を気にし過ぎるのはそろそろ克服出来たかな?''と思い込んでいたのですが、今回の発見から、恐らくそれは勘違いであったのだと判りました。リスト自体は便利なので存在を認識した上で運用を継続しようと思いますが、一方でこのリストの濫用する事に由り将来的に後悔し得るリスクについては、ちゃんと考えていかなければならないと思いました。こういう不安感って、こうして言語化する事で前向きに解消出来る事が多いですよね。

 

追記:いや俺は普段から「自分の人間関係から排除する」という表現を(主に頭の中で)よく使っていて、上記のリストはこの「自分の人間関係」のコンプリメントの事だと思ってほぼ間違いない気がしてきました。なのでリストの存在自体は新しい発見ではなく、今回の収穫は「そのリストの運用方法が不健全であった」という事への認識ですかね。

女性と会話をする機会を作る努力をしたい。

 恥ずかしながら、俺はまじで(年齢が近い)女性と会話をする機会が殆ど無い人生を(少なくとも最近10年以上)歩んできてしまっている。なので、学位や進路関連の事が落ち着いたら、色々な女性と会話をする機会を作る努力をしたいと考えている。最近、判った事なのだけど、俺みたいな30手前の男性の場合、最早お金を払わないとその様な機会を得る事すら難しいらしい。従って、この様な行動を起こすに当たって、先ずは自分の生活費を自分で稼げる様になる事が、最低限、必要だと考えている。*1

 この様な機会を得られた際の取り敢えずの目標として、巷で言われる``女心''なるものが(俺に認知可能なものとして)存在するのか否かを知りたい。仮にそれが存在するのなら、特に「世の女性が何を面白い/価値が有ると感じるのか。それ等に対して、彼女等は如何リアクションを取っているのか」とか「俺が興味を持っている対象について、俺が抱く感想と女性のそれとの間にどんな差が在るのか」とかを詳しく聞いて知りたい。「好きなものについて自分の言葉で詳しく話をしてもらう」という事をしてくれるととても嬉しいのだけど、これは俺の大学院生根性から生じる歪んだ欲求である可能性が在るので、慎重になるべきだと思う。先ずは、何でも良いので女性自身の事について、その女性自身の言葉で話しているところを聞いてみたい。

 後は、俺は漠然と(主に俺自身の人間性、倫理観、持ち合わせている遺伝子の優劣の問題から)「自分は女性との交際や結婚に値する人間ではない」と思い込んでいるのだけど、これは色々な女性と会話をしてみない事には最終的な結論を出せない類いのものであると思うので、この点についても興味が有る。但し、この欲求はより高度なものであり、取り敢えずは色々な女性と会話をさせてもらう機会を作り、その機会を十分に活かす事に興味を集中させるべきだと考えている。

 兎に角、俺は本当に女性について実態の伴った知見を殆ど持ち合わせていないので、先ずは関わりを持たずしては何も始まらないと思う。何も判らん。

*1:いい歳したおっさんが親の金を使ってこの様な活動に手を出す事は人道に反すると思う。後は、一応「ナンパ」という手段も考えてはみたのだけど、俺みたいな男男した風貌の男性が突然声を掛ける事は、女性に恐怖感や嫌悪感を与えかねない気がするので、この手段についてはかなり慎重になるべきだと思う。

納得作業。

 「1/2+1/3」という分数の足し算、勿論、殆どの日本人は通分して答は出せると思うのですが、「何故通分して分母を合わせるのか?」という事を納得している人間は、如何やらそんなに多くはないみたいなのです。

 さて、お得意の自分語りですが、俺は小学生の頃、これを習った時に、確か家で「2等分されたピザを3等分して、また3等分されたピザを2等分してみたいな絵を描いたりして、自分で納得する」という作業をしました。教師に言われた事を自分で納得せずに猿真似する事が、兎に角嫌だったので。代わりに宿題の算数ドリルは一切しなかったので、勿論、テストの点数は(公立小学校で!)ずっと下の方でした。一方で100点とか取る連中がいたので、漠然と「こいつ等は俺が家でやった事を塾で先に習ったり授業を聞いて直ぐに解ったりしているのか~」とか思っていました。しかし、中学に入ってスパルタ塾に入れられた途端、俺の成績は学年1位になりました。

 これは高校についても同様です。授業で解らない事が有る度に、授業に付いていく事を無視して「自分で勝手に点から直線に垂線を下した絵を描いて延々と計算してみたり、或いはグラフで囲まれた領域を小さな長方形に分けてみたり」という様な事をしていました。なので高2以降くらいから数学の成績はずっと赤点付近で、一方で周りにはちゃんと点数を取っている連中がいる。「やっぱ県船*1は凄いな~」とか思っていたのですが、でも浪人した途端に(一緒に浪人した連中がほぼ現状維持くらいだったのに)俺だけ偏差値30上がったり、数学科に入っても同じくらいのレヴェルの高校出身の連中が悉く大学の数学で失敗している中で、俺は(少なくとも学部前半の内は)数学自体での挫折は殆ど有りませんでした*2

 確かに中学、浪人、学部と俺は凄く勉強はしました。でも、それだけではあれ等の逆転の仕方は如何にも説明し難い。かと言ってIQテストとかしても俺は平均+αくらいの数字しか出ないので、如何やら天与の才能の違いという訳でもないらしい。その原因がずっと不明だったのですが、最近、非常勤とかTAとかで学生を観察する様になって、或る説が浮上しています。つまり、俺が一寸勉強したら直ぐに逆転出来た系の人達は、俺が(勉強する上で当然の前提だと思ってきた)「自分で納得する」という作業をせずに``勉強''をしてきたのではないか?」という事です。彼/彼女等は「先生が言っているから」という只それだけの理由で、何も考えずに通分をしたり積分で面積計算をしてきたのではなかろうか?仮にそうだとしたら、一方でその「納得作業」をこなした人間が更に量をこなした時に負ける筈が無い。

 結局、俺と(学力的な意味での)平均的な日本人とを隔てている壁は、能力ではなく「教師を信用しない」という性格と、それに由来する勉強への態度の積み重ねに由るものに過ぎなかったのではなかろうか。一方で、数学者なんてのは、それこそ先程の「通分する意味」みたいなのをまじで授業で聞いた瞬間に理解してきた様な人間が殆どな気がするので、そりゃあ正攻法じゃ俺が太刀打ち出来ない訳です。こうやって自分の過去や現在で起きた現象を確りと分析していくと、何だかスッキリしますねえ。

 纏め:俺がお勉強が得意だった理由は、持ち前のちょい病的な人間不信。

*1:俺の通っていた高校。偏差値70くらい。

*2:くがみやざきに出会った衝撃は数学自体とは関係無いし、背伸びして上の学年のガロア理論の講義に出て玉砕した時くらいですかねえ。

数学の「王道」

 数学には「王道」と見做されている分野が在ります。特に俺が身を置いている分野である数論では、``岩澤理論''、``ガロア表現''、``モジュラー形式''、``ゼータ函数''とかですかね*1。先生方や先輩方で、これ等の数学の「数学的重要性」を説いて俺にお勧めをしてくれる方が割といるのですが、俺は「皆やっているから」という(数学の内容とは一切関係無い)理由により、これ等に人生を割く予定は有りません。 こういう事をやったところで、俺は優秀な人達の完全下位互換にしかなれません。序列がはっきりついてしまう世界で勝負する事は、(俺の才能では)得策ではないと判断しています。こういう世界に俺の居場所は無い。頑張って論文を書いたところで、それ等が価値を持ち続ける可能性はほぼ無いと言って良いと思います。数学の世界に生きた価値が無い。

 一方で、親しい友人でこの世界に十分太刀打ち出来そうなのが何人かいて、俺はそいつ等の事はまじで応援しています。 俺は性格的に知らない人を応援する事はほぼ出来ないのですが、一方で(アイドルやスポーツ選手を応援するファンと同じ様に)「誰かを応援したい」みたいな欲求も恐らく持ち合わせているので、これを身近な人間で満たそうとしているのだと思います。``応援している''という表現も、或いは少し良い人振った表現かも知れません。要は「俺が「勝てない」と思わされたこいつ等が、この恐ろしい世界で何処迄戦えるのかを見てみたい*2」みたいな感じです。

 

注意:一応、言っておきますが、俺は自分の分野が``脇道''だとは微塵も思っていません。単に日本で流行っていない(後、技術的にそんなに高度でない)だけで、数学の内容的にはちゃんと良い分野だと思っています。まあだから「1. 内容はちゃんと良くて(と少なくとも自分は思えて);2. しかも技術は割と簡単なもので済んで;3. その上、周りと被らない」というものが既に在るので、態々2, 3の良さを捨てたところに行く意味が無いと思っています*3

 

追記:序でに毒も一寸吐いておきましょうか。「自分がよく知っている分野でなら数学的興味だけからくる研究を称賛するのに、自分のよく知らない分野の研究には途端に応用の存在を要求する」というタイプの研究者が意外といるのではないかと危惧しています。「自分の好みによって判断基準が振れていて、しかもそういう事をセルフチェックする習慣も無さそう」という事で、俺はそういう人は(その分野での能力がどんなに高くとも)ちゃんと頭は悪いと思います。「単に俺が人間不信というだけで、そんな研究者は滅多にいませんよ」というのが現実の世界だと良いのですが、さて。

*1:クウォウテイションマーク``''は「俺は一切知らない」という事を意味しているつもりです。

*2:これは俺自身の言葉ではなく、とある友人の発言を借りた表現です。

*3:ただ2については「或る程度深い事をやるには、矢張りそれなりに難しい基本技術をちゃんと勉強する努力が必要だなあ」と思わされている今日この頃です。矢張り数学はしんどい。

入試数学への興味。

 今気付いたんだけど、今年、大学への数学の22年入試のレヴュー読みに行ってねえわ。こんなブログやっててあれだけど、何か多分もう、まじで入試数学に興味無いんだと思うわ。だってノースコットナンバーの評価をする方が(俺の中では)遥かに価値が有って格好良いんだもん。入試数学は他にやっている人沢山いるしね。

 学歴が如何でも良くなってきた事も関係在るかも知れねえ。明らかに肩書よりもその人個人の能力とか人間性の方が興味が有るし、となると18,9歳の頃の一時的な(それも学力だけの)指標に過ぎない出身大学名って、基本的には後者よりも前者に近いものな気がするしねえ(勿論、出身者全体で平均を見れば、人間性やら含め明らかに相関は在るだろうけど)。昔はFランと見下していた理科大とかマーチの人で、俺よりも遥かに数学出来て人としても立派な人を何人も知っています。結局、大学入ってから如何過ごすかですよね。

 但し「如何でも良くなってきた」とは言ったけど、矢張り一般論として、大学行くならまあまあの所には行った方が良い気がします。これは肩書云々じゃなくて、周りの友達とか指導体制とかを考えての話です。特に大学にちゃんと勉強しに行きたいのなら「勉強出来るってすげー」みたいな価値観が多数派のとこに行かないと、色々としんどい気がします。これが当てはまるのが具体的にどの大学なのか、俺にははっきりとは判りませんが(取り敢えず九大は該当していると思う)、まあ例えばオープンキャンパスとかって、こういう大学の雰囲気を知る為に使うってのが賢かったんだろうなあ、って最近は思います。

 

※東大京大九大だけは来年以降もちゃんと解きます。8年も続けてきたしね。