予備校講師採用試験に2回落ちた九大チンカス研究員の入試数学語り。

毒舌、下ネタ注意。※年々自信を失い、それに伴って毒もマイルドになってきています。

内心の自由と表現の自由。

 先ず初めに、俺は安倍元総理大臣は政治家として凄い人で、彼が亡くなった事はとても残念だと思っています。その上で俺は、例えば俺の生活を何らかの意味で脅かしている人間がいたとして、その人間が死んだ時、普通に嬉しい気持ちになる人間です。何を言いたいかと言うと、(真偽は別として)仮に安倍さんに自らの生活を脅かされていると感じていた人間がいたとしたら、その人が安倍さんの死を嬉しく思う事自体は、人間として極自然な感情であり、何ら道徳的責めを受けなければならない類いのものではないと思うのです。これは「内心の自由」である。

 その一方で、この「嬉しい」という感情を発信するとなると、話は別だと思います。基本的に他人の死を喜んでいる事を発信するなんていうのは下品だと思うし、仮に何らかの理由でその感情を発信すべきだとしても、その人の死を悲しんでいる人に対して十分に配慮をした形を取る様に最大限の努力をすべきだと思います。これは「表現の自由の行使については、一定の制限を課すことができる」という事実に由ります。

 以上、何を言いたかったかと言うと:

・``他人の死を喜ぶなんて人としておかしい''という、他者の内心の自由へ干渉しようとする世の風潮への批判。我々は他者の内心を決して批判してはならず、批判し得るのはその表現のみである;

・その上で、一部の極端な左翼による安倍さんの死に対する「嬉しい」という気持ちの下品な表現は、「表現の自由に対する制限」の観点から糾弾されるべきものである。

という2点です。

数学の「理解」について思う事。

 俺は一応、数学って「自分で理解する」のが大切だと思っているのですが、それについて少し小言をば。

 

 先ずはそもそも論として、如何やら世の中の多くの人(例えば九大数学科でも半分弱?)は、そもそも数学を「自分で理解するもの」ではなく「試験やレポートで先生から丸を貰える書き方*1を覚えるもの」と思っている人が多いっぽいです。本来ならこの「試験やレポートで丸を貰える」というのは、「自分が理解する事」「それを(数学を解っている人(≠数学教師)なら)誰にでも伝わる言葉で書く事」という2つの極々弱い系に過ぎない筈なのですが、そもそもその認識が無い。「この書き方で良いですか」みたいな事を神経質に聞いてしまう子は、大体、このタイプなんじゃないですかね?*2これはまあ或る意味で、受験や学校のテストみたいな大衆向けの数学の指導体制の弊害だとも思うんで、一概に責められたものじゃないとは思いますが、少なくとも数学科の学生でいつ迄もこれをやっちゃう子は、知能、又は数学に対するプライドの少なくとも一方が結構ちゃんと駄目な気がするので、今後、特に教育系で数学と関わるのは、他人に迷惑を掛けない為にも止めてくれる嬉しいな、って個人的には思います。非数学関係者については、これはまあ仕方が無い事だとは思います。俺だって受験の時に化学とか面倒臭い単元は何も考えずに丸暗記したりしていましたし。まあでも「これは理解せずに暗記だけしてしまっている」「これは本来の意味での学びではない」みたいな事はちゃんと解っていたので、この認識すら無いってのは、矢張り知能的な意味で少々まずい気がします。

 

 次にその理解の仕方についてですが、他の記事でもちょいちょい言っている「サイエンスの理解(帰納)」と「数学の理解(演繹)」の前者から卒業出来ていない(i.e., 後者を理解出来ていない)ってパターンが多い気がします。*3高校迄の数学って、多くの場合、理解を演繹側でやっちゃうんですよね。「分割をどんどん細かくしていけば、いつかは元の図形の面積になるよね」っていうのは、イメージとしては悪くないと思うのですが、数学の証明ではありません。絵でイメージ出来てしまったり、沢山の例に対して手を動かしてしまったりしていると、何だか段々、解った気になってきてしまいます。勿論、これは学問として数学をする上でも極めて大切な事だとは思うのですが、一方で、これだけを以て「ちゃんと``証明''出来た」と思ってしまうのは、学問としての数学的には誤りです。でもこの演繹型の理解って、出来なくても日常生活をする上では殆ど支障は無いとは思うんですよね。*4*5んで、この演繹型の思考って、如何やら苦手な人はまじで苦手らしくて、しかもこれが苦手でも(それこそ数学以外のサイエンスみたいな)別の学問では素晴らしい才能を持っている方とかが恐らく普通にいます。加えて、高校数学、そして後続の線型代数微積分、統計みたいな他の分野でもよく使われる数学って、恐らく演繹ではなく帰納の理解の仕方でも、応用上十分な指導がちゃんと展開出来ると思うんですよね。っつー事で、非数学科向けの指導では、寧ろ数学のマナーである演繹を過度に押し付ける事の方が良くないんじゃないかなー、とか最近は思ったりもしています。俺は最近、学生全員向けの説明は取り敢えず帰納でいって、興味持ってくれそうな子向けに演繹の話も一寸補足する、ってスタイルでいっていて、少なくとも演繹メインだった時よりは上手くいっている気がしています。

 

 っつー事で「そもそも理解しようって認識が無いのは論外だよねー」「理解は恐らく(非数学科なら)帰納で十分だよねー」って話でした。

*1:俺は現実の会話では``魔法の呪文''って表現する事が多いです。

*2:勿論、中には「俺はちゃんと解っているつもりだが、これでちゃんと通じるかね?」みたいなちゃんとした確認としてこの言い回しする子もいると思うけどね。

*3:一般論としては、帰納と演繹に優劣は無いと思うのですが、学問として数学をする上では、多くの場合、演繹が圧倒的優位だと思っています。

*4:ここでの「日常生活」は、恐らく(数学関係以外の)理系の職業で働く場合を含んでいます。

*5:勿論、だからと言って全然無駄なものではなくて、つまりは考え方の新しい型を身に付ける事になるので、日常生活に於ける思考が豊かになったりすると思います。

部活指導に``熱心''な先生。

 以下のツイートに関連した小話です:

https://twitter.com/yuyu414141/status/1534512282642055177

引用リツイートしようと思ったのですが「ツイッターで解った様な事は書かない」と決めているので、俺の空間であるブログに書きます。

 先ず「教科指導が1番大事」という部分については、俺は半分同意します。と言うのも、教科指導のみが1番大事なのは塾や予備校であって、学校は人間性の指導とかもしてくれると嬉しいと思うからです。次に、教科指導は二の次であっても質が十分高ければ何の問題も無いと思います。熱心な無能と熱心でない有能なら、(本当に何もしないとかでない限りは)基本的に後者が選ばれるべきだと思うからです。という事で現に俺なんかは、数学に対してそれなりに熱心だとは思うのですが、能力が足りていないという理由で、ちゃんと生活費を貰えていません。以上が前提です。「熱心な無能」というキーワードは次の段落で再登場します。

 さて、(運動部に話を限定して大変恐縮ですが、)先ず俺の意見として、身体の仕組みや動かし方をちゃんと理論として教える為には、かなりの知能が必要だと思っています。例えば俺は、身体の動かし方についてはそれなりに詳しくなってきた自信が有りますが、*1身体の仕組みについては殆ど理解出来ていません。*2その必要とされる知能の水準については何とも言えないのですが、例えば、高校の教科指導なら、片手間であっても十分な質のものを提供できる程度のものが必要なのではないかと思います。直前2文の対偶を取る事で「教科指導が(片手間であっても)十分にこなせない程度の知能の人間ならば、運動部指導も難しいんじゃないかな」となります。即ち、この「ゆゆさん」が批判されている先生方は、じつはそもそも部活指導も``熱心''なだけで質はちゃんとしたものを提供出来ていない「熱心な無能」の方々なのではないかと思うのです。

 さて、ここで1つ、人間不信の俺の観点から主観的論を展開すると、そういう「部活``熱心''な先生方」って、そもそも本当に「熱心」なんですかね?*3と言うのも、(ゆゆさんのツイートとは関係無い、一般論的な意味での)「部活``熱心''な先生像」って、凡そ「その競技を本当に愛していて、だからその競技をもっと多くの人に好きになってもらい、それを通じてその人に幸せになってほしい*4*5」みたいに本気で思っている人のそれから、かなりかけ離れている気がしてならないのです。これは本当に俺の想像でしかないのですが、そういう先生方って要は「自分が沢山``知識''を持っている(と思い込んでいる)分野で、自分より立場が弱い(i.e., 反抗されるリスクがほぼ無い)学生相手に上から目線で自分の思想を言い放ちたいだけ」なんじゃないかなあ、とか思ってしまうのです。仮にこういう人がいるのだとしたら、それはもう、その競技から見ても敵みたいな輩だと思うんですよね。いや、批判する相手が如何いう人間なのかを色々と想定しておく事ってとても大切だと思うので、「それでも部活だけは熱心な先生」とかですらない、完全なエゴイスト像も想像してみたのですが、矢張り俺の人間不信が過ぎるだけですかね?

 

 はい。ごめんなさい。遊んでないで博論の続きやります💩

*1:それでも尚、苦手な動きはそれなりに有って、例えば水泳の様な自分の身体で直接コントロール出来ない物体(ここでは水)が絡む運動や、ハンドスプリングの様な(俺の主観的)恐怖が伴う運動については、未だ未だ理論的克服に全く至っていません。

*2:勿論、スポーツ関連の書籍を読んで「筋肉の修復には一般論としてこれくらい時間が掛かる」とか「こういうトレーニングが筋力向上を目指す上で効率が良い」みたいな話はそれなりに知っているのですが、それを自分の身体作りに実践レヴェルで活かす事が殆ど出来ていません。怪我の率はかなり減りましたが、筋持久力や最大筋力に関して言えば、例えば「腕立ての回数が何ヶ月も伸びず、結局、根性だけで解決してしまった」みたいな状況が続いています。これもその内、纏まった時間と自分の身体を使って色々と調べたいと思ってはいるのですが…

*3:ここ迄の「熱心」に付けたクウォウテイションマークは、勿論、疑念の意を表してきたつもりです。

*4:ここでは裏である「その競技を通じて幸せになれそうにない人をその競技に縛り付けはしない」も含意させるべきでしょう。

*5:運動競技は数学や自然科学とは異なり真に人間的な営みなので「運動競技を愛している」の条件に他者との関わりに関するものを含む事は妥当だと思っています。

俺より強え女が好き!

 以下は先日、某プロとの会話で得た知見です。(現実に効果が在るかは別として)異性にモテる為の手段として、男って割と「勉強して学力を上げる」ってのを思い付くと思うのですが、*1一方で女性でこの手段を採用する方って、恐らくかなり稀なのではなかろうかと思われます。これが事実だとすると、間違い無く男女の学力差に致命的な影響を及ぼす筈です。思春期人類のモテへの渇望の凄まじさは、多くの方が経験則として承知の事でしょう。これが一方の性では勉強への原動力として変換され、他方の性ではそうでないのだとしたら、ここから生じる差に疑いの余地は在りません。

 さて、この現象を生み出している第一の原因は、勿論、女性側に「(自分より)能力が高い男性が好き」という風潮がある一方で、男性側にそれが無い事に尽きるでしょう。*2この風潮の性差を生み出す男女の性質差が仮に全てジェンダーではなくセックスに由来するのだとしたら、これはもう、是正の余地はほぼ無いと言って良い気がします。*3女性が男性に身体能力で劣るのと同じ事です。しかし俺には、少なくともジェンダー側の寄与が0であるとはとても思えず、だとしたらここには是正の余地が在ります。*4

 ではタイトルを回収しましょう。即ち俺は、俺より強え女が好きです。ここで``強え''の定義を少なくとも俺の中では明確に得られてはいない事を補足しておきます。*5んで要は「この風潮、男の中で流行れよ」って事です。そしてこれは実際にちゃんと流行り得ると思うんですよね。いや男って見栄っ張りなのは間違い無いのですが、一方でちゃんとメンタルは(それこそ女性よりも)ちゃんとヘタレな場合が多いと思っているので、その見栄による外骨格をちゃんと取り払うだけの何か要素がちゃんと在れば、ちゃんとヘタレられると思うんですよね。これはマザコンやら結婚したら女房の尻に敷かれる男が多いという事が、正に状況証拠になっていると思うのです。

 一方でこの風潮には女性にもちゃんと責任が有る気がします。いや「私より頭が良い男が好き」みたいなの、若し在るんだとしたらまじ止めてください。それこそ「私が先に勉強して彼氏に勉強教えてあげるんだ」くらいの気概を持ってくれると嬉しいですね。まじ女の子にスキーム論教えてもらいたい。

 以上、バブみ記事でした。

*1:この「学力」の部分は、ひょっとしたら世で価値が在るとされている多くの別の能力に置き換え可能かも知れません。

*2:或いは「世の男女の各々がこの風潮の存在を信じている」と言った方が、より正確かも知れません。

*3:ここで、恐らくジェンダーとセックスに明確な境界が存在しないであろう事も注意しておきます。即ち、元はジェンダーに由来していたマインドの性差も、それが数世代に渡って続いてしまうと、ちゃんと遺伝子頻度レヴェルの性差に繋がってしまい得るからです。「進化は直ぐには起こらないけど、品種改良は数世代で起きてしまう」という事は、恐らく多くの方がご存じでしょう(品種``改良''と言ってしまうと少し誤解の余地が生じますが、これ以外の良い用語が思い付かないので、ここではこれを用います)。ここで、品種改良により生じた遺伝子頻度の差を「セックスによる差」と呼ぶ事が学問的な意味で適切であるか否かは、俺には判っていない事を白状しておきます。

*4:一方でセックス側の寄与が0である事についても、矢張りここでは完全に否定する事は避けておきます。

*5:一応「俺が価値が有ると主観的に認めている能力(例えば数学力、数学以外のちゃんとした学問の能力、物事を理屈で考える能力、身体能力、e.t.c....)が(少なくとも俺より)高い、且つ精神年齢が高い(例えば、先の能力の高さで以て他人を不必要に傷付けたりしない)」というのが有るのですが、突っ込まれると返答に困る未定義概念が多分に含まれているため、俺の中では未完成です。

二次元美少女文化のパブリックな発信の仕方について思う事。

 最近、``表現の自由''みたいな大袈裟な単語も持ち出されながら「二次元美少女文化を(例えば公共の場でのポスター等として)積極的に発信する」といった行為に関する議論が起こっています。結論から言うと、俺は「この様な行為はどちらかと言うと控えた方が良いんじゃないかなあ?」と思っている立場で、それについて一寸書いていこうと思います。

 先ず、(これはよく知られているかそうでないのか俺にはよく判らないのですが)俺は割とがっつりとした二次元美少女オタクです。*1これはツイッターのいいね欄を見ていただければほぼ明らかだと思います。歴もまあまあ長くて(15年以上?)、最初は「ひぐらしのなく頃に」とか「ゼロの使い魔」とかだったです。ポテンシャル的にはもっと長くて、遊戯王の女性カードを秘かに大事にしていたり、或いは妹が見る女児アニメを口では「えーまたこれ見るのー」とか言いながら実はポテンシャリー楽しみにしていた系です。*2

 自分語りはこれくらいにして、じゃあ何で二次元美少女文化好きである筈の俺が第1段落の様な考えを持っているのか、という話ですが、これは第2段落冒頭の「これはよく知られているのかそうでないのか判らない」という部分が少しポイントになっています。つまり、俺は「その気になって俺について少しでも調べようとした人に対しては自分の趣味を一切隠してはいないけど、自分から「俺は二次元美少女オタクだー!」みたいな事を他人に話したりパブリックに発信したりは殆どしていない」という態度の人間であり、この態度は或る種の信念(と言ったら大袈裟かも)から来ていて、そしてこの信念が先の考えに対する理由にもなっているのです。この信念とは簡単に言うと「性的な話題は決して恥ずかしいものではない一方で、(誰の目にも付く様な)まじでパブリックな発信はすべきではない」というものです。*3

 詳しい説明を書くに当たり、先ずは次の前提を認めてもらう事にしましょう:(俺を含む)多くの二次元美少女オタクは、基本的には二次元美少女キャラを好きな理由の根底に、性的な欲求が含まれている(``全て''とは言っていませんよ!)。そしてこれさえ認めてもらえるのだとしたら、先の信念自体にはかなり自然に到達し得るのではないかと思うのです。例えば、(パラレルな例えになっているかは一寸疑問ですが)若いご夫婦なんて存在は、そりゃもうほぼ自明に夜はえっちな事をしている訳ですが、一方で少なくともそれについて誰彼構わず話す事はしない、という文化を我々は共有している訳です。即ち「性的な話題というものは、``暗に明らか''であったとしても、それを敢えて口にするのは野暮である」という不文律を我々は共有しているのです。この不文律に対して更に理由付けを行う事は(少なくとも俺には)難しい事なのですが、でも、直接的な性的話題を苦手とする人は確実に(社会的に無視出来ない割合で)一定数いて、そして彼(女)等の感覚は決しておかしなものではないと思うので、そこに払われる(当然の)社会的配慮が、この不文律であるのだと推察しています。

 さて、以上ので説明した信念が第1段落の考えに至る為には1つの論理的ギャップが存在します。即ち「二次元美少女のイラストは性的であるか否か」という(ネット上でも議論の中心の1つとなる)問題です。これについては先ずはイラスト個々の表現に依ると思います。しかし、ネットで話題に挙がってきたイラストの多くは、例えば水着等の極端な薄着であったり、或いは現実ではほぼ実現不可能なおっぱいの強調描写(i.e., ``乳袋'')であったりといった表現が含まれているので、俺は(少なくとも若いご夫婦がそうであると自己紹介してくるよりは遥かに直接的な)性描写だと思います。*4まあでもこの判断は最終的には個人差に由るとしか思えないので、第1段落では「どちらかというと~じゃないかなあ?」という様に、かなりふわっとした表現をしたつもりです。また、二次元イラスト広告に対して異議を唱えている人達についても、「本当に性的な事を自然に連想してしまって嫌な気分になっている」のか、それとも「単にそう思い込んでしまって勝手に怒っているだけ」なのかの区別が俺には付かないので、俺からは何とも言えません。仮に前者の割合が無視出来ないものであるとしても、アンケート調査等では後者との区別は付かないと思いますしねえ。だからこの件については最後は個人個人の判断に依るしか無いと思いますし、そうなると、内々に二次元コンテンツを楽しむ事への火の粉も考えて、俺は慎重な立場を取っています。

 ところで「内々に二次元コンテンツを楽しむ」という表現をしました。最後にこれについて「表現の自由」という言葉と合わせて考えを書いていきたいと思います。先ず「表現の自由」なる権利が「公的な場に於いて如何なる制限も受けない権利」でない事は周知の事実でしょう。そして「公的な」と書いた事からお察しの通り、(憲法学的に正しい解釈であるかは別として)俺は「表現の自由」なる権利の本質は「内々での表現はまじで如何なる制限も受けないもの」である事であると思っています。仲間内でならどんな過激なエロ話をしても良いし、それこそ本当に個人だけで楽しむ分にはどんなに非倫理的なエロ漫画を描いても良いのです(こちらは最早「内心の自由」の方か)。「表現の自由」という言葉は、こういう内々にやっている事を守る為に使うのが利口なんじゃないかと思います。例えば、てめーから俺について調べようとしてブログを読んでそこでの文章にケチをつけて来たり、或いはてめーで態々R-18ページで探さないと見付けられないエロ表現に対して文句を言って来たりとか、こういう時に全力で殴り返す為の根拠が「表現の自由」なんじゃないかなあ、と思っています。

 

 以上、書きたい事は大体書けた気がします。

 

 

追記:

 第4段落で仮定した前提について、二次元に限らず一般に見た目等が好みと合致する女性について、俺は完全に性的欲求が連想される事を防ぐ事は出来ず、またこれは殆どの男性も同様なのではないかと思います。これは無理に否定する事の方が寧ろ不健全な事実である気がします。寧ろ「貴女(或いは特定の女性キャラ)に対して性的な連想をしてしまう事が有るが、自分はそれを意図的に放棄します」みたいに、内的衝動を認めた上で理性側で対処した方が良い事実である気がします。(これは最早、筆が滑り過ぎな気がしないでもないですが、)例えば生徒に淫行して捕まる教師とかは、こういう衝動と理性の区別(及びその切り離し)が上手く出来ずに、理性だけで対処すれば良いものを(内的)衝動の方まで抑圧しようとするからやっちゃうんじゃないかなあ、とか思ったりもします。*5

*1:因みに数学は2次元よりも一般次元、もっと言うと次元とかは気にしない抽象論の方が好きだったりします(幾何は難しいので)。

*2:「ポテンシャリー」という副詞で「当時の俺は認めたがらなかっただろうけど」という事実を表現しています。

*3:ここで1つ弁明をしておきますが、ツイッターやブログは(俺は)それなりにプライベートな空間だと思っています。近い例を出すとしたら「他にお客さんが居る飯屋で友達とする会話」くらいでしょうか。「その気になって会話内容を聞こうと思えば判るけど、基本的には個人間のやり取り」という類いのものです。なので(俺が大好きな)下ネタを言ったり二次元美少女に関するツイートをいいねする、という行為も、先の判断基準に沿う範囲ではしています(下ネタに関しては俺と親しくしてくれている方々の名誉の問題とかも生じてくるので、最近は自分の中の基準をかなり厳しくはしてきていますが…)。

*4:「だったら男の上裸写真は如何なんだ?」みたいなのがこれに対する常套句的な反論の1つとして在りますが、俺は童貞(2022年5月現在)で女心が判らないので、これについては議論しません。世の女性って、男性の上裸でどれくらい性的な事を連想したりするんですかねえ?

*5:因みに俺は「~をしたい」という衝動のコントロールはそれなりに上手だと思っているのですが、一方で「~をしたくない」という衝動のコントロールはかなり苦手です(後者の衝動をコントロール出来ていない結果として前者の衝動もコントロール出来ていない(例えば、勉強したくないからゲームをしてしまう)とかはよく有りますが)。

古文漢文教育について思う事(素人の感想)。

 折角、三角函数の話が出たので、要不要論のもう1人の人気者、古文漢文について思う所を述べておきます。先ず「俺は以前、古文漢文不要論者だったが、最近は少し意見が変わってきた」という事を述べておきます。

 先ず、インフラ的な要不要という文脈での質問として「古文漢文の知識が多い人が減る事によって国民の生活にネガティヴな影響が出る、みたいな職業は存在するか?」というものを考えます。これ、俺は恐らく「ノー」なのではないかと思っています。*1*2なので以前の俺はこれを以て``古文漢文を学校で教えなくて良い''という考えだったのですが、そこに少し変化が有ったので、それについて述べていきます。先ず、先の質問の答えが「ノー」である事から、矢張り大衆の古文漢文に対する知識量の多さを重視する必要は恐らく無いだろうと考えます。もう少し簡単に言えば「単語テストをしてその点数で優劣を決める」みたいな教育は、まあ不要だと思います。恐らく、かつての俺や他の古文漢文不要論者の古文漢文に対するヘイトの最大の原因は、この「暗記テスト」なのではないかと思っています。「ほいなし」とか「るらるるらるすさすしむずじむむずましまほし…」とか、これ等は本当に私的にも公的にも不要な知識であると俺は信じています。そして、恐らく(本当に古文漢文を好きな指導者であるなら、)自分の好きな科目がヘイトを集める事はほいなき事かと思います。*3従って、古文漢文教育は、基本的には知識量よりも「負担は減らしつつ、且つ興味を持つ学生を増やす」という点を重視すると良いんじゃないかなと思います。個人的に思う具体案を1つ提示すると、知識量を評価基準から撤廃し(つまり単語テスト廃止)、寧ろ「よく解らない言語を単語やら文法やら色々と調べながら読む練習の素材」として利用し、また文章としての内容をちゃんと楽しむ事に重点を置いていくと良いんじゃねえかなあ、と思います。その素材として古文漢文を公教育で用いる事には「矢張り我が国のかつての言語である」「関連して、少なくとも他言語よりは日本人にとって馴染みやすい筈である(大衆向けの教材として手頃)」という2点で十分なのではないかと思います。この方法でもちゃんと本当に興味が有る人(つまり、将来、国文学者みたいなまじで古文漢文使う超プロパーな職業に就く人)はちゃんと排出する事が出来ると思います。少し自分語りをすると、俺、文法の暗記が兎に角嫌過ぎて、大学入試では古文完全に捨ててセンター試験は全部1をマークしたんですが、一方で源氏物語の若紫の話とかはちゃんと大好きで、今頃になって漫画買ったり、(本当に極たまにだけど)気になった場面の原文の1文を調べながら訳したりします。この切っ掛けって、高校の頃の国語の先生が授業の合間に面白そうに話していた(源氏物語に関する)余談とかだったりするんですよね。*4っつー事で、下手に「暗記させて試験」みたいな事をさせずに、内容をちゃんと楽しむ余裕の有る教育にした方が、ずっと科目としての良さが活きるんじゃねえかと個人的に思うのです。

 

 以上、全て完全なる素人考えであり、これを基に俺以外の人間に如何なる影響を及ぼす事も意図していません。

*1:因みにこの質問の「古文漢文」の部分を「三角函数」に変えると、答は先ず間違い無く「イエス」なのではないかと思っています。

*2:断定はしていません。(挑発ではなく純粋な興味として)若しそのような職業に心当たりが有る方がおられたら、是非コメントで教えてください。

*3:この点は他の科目の指導者についても同様だとは思うのですが、ここでその科目に関する先の質問に対する返答が「イエス」であったか「ノー」であったかによって判断に差が生まれると思っています。つまり、数学は多少、大衆からのヘイトを集めてでも、大衆全体の知識量を上げる教育をしないと、実際にインフラレヴェルの悪い影響が出るのではないかと考えられるのです。

*4:因みに高校の頃の古文の授業は、1年生の本当に初めの方で「るらるるらるすさすしむ…」を思考停止で丸暗記したのと、たまに先生がする雑談に耳を傾けていた以外は、基本的にずっと漫画読むかゲームするかしてましたねえ。文法事項やらを「覚えなさい」みたいに言われるの、本当に嫌でしたねえ。

例の発言。

 例の三角函数の発言、数学を中心とする理系勢から凄え強い言葉で反論が沸き起こっているけど、そういう連中の中に「三角函数はこれとこれとこの仕事でも使われていて、この仕事は国内にどれくらいの人数が必要で、それを確保するにはどれくらいの人数に教育する必要が在るか?」みたいな根拠をちゃんと数字と論理で用意した上でやっている人間は、果たしてどれくらいいるんですかね?こういうのやらずに雰囲気とか自分の好き嫌いで反論している奴等がいたとしたら、まじあの議員とレヴェル同じだからね。因みに俺は三角函数について自分で納得のいくだけのちゃんとした根拠を用意していないし、一方で金融経済の事は最早ほぼ何も知らないので、強い言葉で三角函数の必要性を訴える事はしません。思考停止の数学信仰はそれはそれでキモいぞまじで。

 一方で恐らくあの議員も議員で恐らくこういう数字と論理による根拠無しで発言しているんじゃないかと思っているので(違ったら本当にごめんなさい)、若しそうならちゃんと頭悪いから政治からは手を引いた方が周囲の人の幸せに繋がるとは思います。てか金融経済自体は恐らくちゃんと大事な知識なのだと思うけど、それを持ち上げる為に何で態々三角函数を下げる必要が在るかね?こういうコミュニケイションの基礎が身に付いていない時点で、やっぱ議員とかは辞めた方が良いんじゃないかな。