予備校講師採用試験に2回落ちた九大チンカス研究員の入試数学語り。

毒舌、下ネタ注意。※年々自信を失い、それに伴って毒もマイルドになってきています。

他者を数字化して優越感の肥やしとして消費する事について。

 本ブログは3つの段落から構成されています。第1段落は本題への導入としての経験談であり、重要な部分ではありません。第2段落がタイトルでもある「他者を数字化して優越感の肥やしとして消費する事」についてです。最終第3段落は、転じて「数字化され消費される大衆」について書いています。

 最近、セミナーとかに出ると「岡﨑さんですよね?ツイッター知ってます!」と(俺は知らない)人から話しかけられる事が多くなってきました。恐らく、俺が実名でツイッターをしている事が原因だと思います。*1先ず、俺は個人的に「数学関係者が数学の能力や実績以外の理由で知名度を得る事はダサい」という考えの人間です。そして、それこそ広く知られている様に、俺の数学の能力は、数学者志望の中では決して高いものではありません。*2実績については1つ1流のものが有りますが、これは運と共著者に恵まれた故のものであり、今後もこの様な研究を続けられるという客観的根拠は、現時点では無いと思います(いや絶対やるけどね)。従って、俺は現在、正に「数学の能力は低いのに、何か一寸知られちゃってる人間」になってしまっている気がします。

 しかしながら、俺がこの現状に於いて真に悲しいのは、こうして「岡﨑さんですよね?ツイッター知ってます!」とか言われた時に、何なら一瞬、一寸嬉しいと思ってしまう自分がいるところです。俺は如何しても、この「俺は相手を知らないのに、相手は俺を知っている」というアンバランスな関係性に、優越感を見出してしまいます。これに限りません。俺はツイッターで「いいね」が付くと、如何しても一寸嬉しいのです。俺はこういう、何処迄も俗物的な俺という人間の事が、本当に大嫌いです。*3この俗物的感情は正に、タイトルの「他者を数字化して優越感の肥やしとして消費する事」への欲求に他ならないと考えます。この欲求は社会に広く一般的なものとして浸透しており、それは例えば「フォロアー数マウント」「再生数自慢」等の形で世に現れています。しかしながらこの欲求は、最終的にはカルト宗教や独裁政治へと繋がる非常に危険なものであると俺には思え、だからこそ、個々人が一線を越えない様にコントロールすべきものであると信じています。

 さて、この欲求のコントロールは、欲求を抱く側のみの責任であるとは俺は思いません。というのも、この欲求が満たされる為には「数字化される他者」の存在が不可欠であるからです。即ち、数字化され得る大衆側にも、この欲求のコントロールへの責任が課されて然るべきだと思うのです。勿論、我々は文明社会で生きる以上、如何しても数字化され消費される事を回避し得ない場合も在ります(寧ろこちらの場合の方が圧倒的多数?)。ワクチンを摂取すれば「3回目摂取者数」といった形で消費されますし、真に創造的であると信じる研究活動ですら「引用数」「○○年度の△△大学の査読付き論文発表数」みたいな形で、単なる数字として消費されていきます。しかしながら、例えば、カルト宗教を信じてしまう事、知名度だけの無能なアイドル候補に選挙で投票してしまう事や、反社会的な炎上動画を再生して結果的に投稿者に利益をもたらす事等は、明らかに数字側も強く糾弾されるべき状況であると信じています。こういう「自身を数字化し消費する相手」を適切に理性で選ばずに行動を起こす人間を、俺は最近、勝手に「プライドが低い大衆」と呼んでいます。そして俺には、世の中には「プライドが低いまま、自分がこうして数字化され他者の優越感の肥やしとして消費される事に違和感を抱かない人間」がとても多いと感じられてなりません。俺はたとえ凡庸な大衆であっても、このプライドが低い大衆にだけはなりたくないです。しかしこの先、社会に出て圧力を受けながら生きていく中で、凡庸な俺がこのプライドを何処迄守っていく事が出来るのかは、全く判りません。

 とまあ以上、俺が日頃から抱いている感情を1つ文章化してみたのですが、うーん、俺が病的に自意識過剰なだけなのでしょうか...?*4

 

(追記)

俺は母ちゃんに「自分がやられて嫌な事は人にするな」と言われ育てられ、これは現在では俺の中での基本的教義となっています。ところで、上記の通り、俺は他者に自分が単に優越感の肥やしとして消費される事を基本的には嫌っている人間です。そして、第2段落で述べた様に、俺は根本的には他者を優越感の肥やしとして消費する事に対する欲求を持った人間です。従って、教義と欲求の矛盾にしばしば不快な思いをする訳ですが、こうしてこの矛盾にちゃんと不快感を抱く自分の事は、矢張り大好きです。

 

(追々記)

とは言っても、俺の「数字として消費されたくない」という感情の強さは、矢張り中々に強く病的な方だと思います。例えば、数学関係者ってほぼ例外無く「偉い先生の講演だから皆で聴きに行こう」みたいな感じなのですが、俺的には「何で俺の事を知りもしない大先生閣下の講演なんぞに俺の1時間を差し出してやらにゃならんのじゃ?」みたいな感じですまじで。いや分野めっちゃ近いとかなら(純粋に数学の内容への興味により)寧ろ余裕で行きたいんですが「岩澤理論の大先生」とかまじで意味判らんわ。てか聴いたところで大先生閣下の有り難いお話とか俺みたいな凡庸大衆には何も解らんし。いやこんな事書いてるの、実は何年か前に九大に来た某大先生の講演を周りの雰囲気に釣られて聴きに行ってしまった事が有ったからなんです。あれはまじで、当時の俺の人格の薄さを代表する俺的ハイパー黒歴史だと思っていて、従ってこの事への自己批判のつもりで書きました。

*1:信仰上の理由により、俺は個人の思想を述べ得る場面では必ず実名を名乗る様にしています。

*2:俺は代数幾何はまじで使えません。代数的整数論も下の体が有理数体の場合しかまともにフォローした事が無く、下の体も一般的な代数体の場合は、それこそ最近、やっとこさ証明抜きで一通りフォローしたばかりです。函数体は現時点ではまじで無理です(ガロア理論を勉強した時に純非分離拡大の例として弄った事しか無い)。楕円曲線もまともに勉強したのは有理数体上のモーデルの定理だけで、しかも弱モーデルは完全に忘れました。いやてか学部レヴェルの内容についても、複素や微分多様体は全部忘れました(流石に成績は良かったです。前者は就活に必要だから近く思い出します)。てかそもそも多変数の微積もまともに覚えてねえ!ふぁー!

*3:と同時に、こういう自分を理性側でちゃんと嫌おうとする自分の事は大好きです。

*4:何か締めが「俺って変わってる?」みたいな「変わってる自分アピール」みたいでキモいですね。こういう考えの人間、多数ではないだろうけど一定割合は確実にいて、別段、珍しいものではないだろうという自覚が有ります。と言うか俺は「他と違う変な人間」には憧れますが、上記の様な「能力や実績に由らない、単なる考え方」のみを以て「変な人間」になる事は出来ないと信じています。社会的に能力が高い人間が自分の思想の話をすると、プライドが低い大衆はよく``やっぱ誰々は考え方が違う''みたいな言い方をしますが、似た様な考え方の人間自体は探せば幾らでもいる筈です。なので、言った内容それ自体に意味が有るのではなく、その「能力が高い人」が言ったから意味が有るのです。「何を言ったかよりも、誰が言ったかの方が大事」なのです。あー俺も「誰」になりてー。従って、未だ誰でもないこの俺が書いているこのブログの文章にも、本質的な意味は有りません。悲しい!