予備校講師採用試験に2回落ちた九大チンカス研究員の入試数学語り。

毒舌、下ネタ注意。※年々自信を失い、それに伴って毒もマイルドになってきています。

``数学に対して誠実''。

 最近、時々「数学に対して誠実」と言ってもらえる事が有ります。でも、こう言われる事に対して何かあんまり良くない感じの快感を覚えたりするので、そんなに誠実ではないと思います。後は、単にびびって予防線張りまくってるだけ説。だけど、こうして自己批判的に考える事が出来る自分の事は大好きです。あー自分の事好き過ぎて困るわー。いや嘘、そんなに困ってねえや。

深夜の雑記。

 生活のリズム終ってて夜の12時前に起きてしまいました💩ただ、後ろに6時間くらいずらせば丁度良いので、悪くはないと思います。

 さて、以下のツイートをしようとしたのですが、長くなったのと自分語りが過ぎる気がしたので、こっちに書き散らかしておきます:

 

 俺って気紛れに建物に迷い込んだ虫を外に逃がしたりはするんだけど、一方で便利だって理由で確実に虫を叩き殺しているであろう電車や飛行機には乗るし、てかそもそも虫の好き嫌いも見た目や大きさで差別しているし、何処迄も偽善者だなあ、って思います。ただ一方で、こういう事ちゃんと認識して考える自分の事は大好きです。自虐するのって結局は「こんな可哀想な自分を見て」「こんな悩んじゃう真面目な自分を見て」みたいな自己愛拗らせ現象の場合が殆どだと思うんですよね。だったら素直に「~な自分が好きです」て言った方が、精神衛生的にも良い気がしてきています。あーでもちゃんと周りを笑わせられる「ネタとしての自虐」は、愉快で良いものだと思います。しかしながら、傍から見ててどっちの自虐か判り難いし、んで自己愛の方だと思わせてしまうと寧ろ嫌な気分にさせちゃうだろうから、その意味でとても難しい芸風だとも思っています。

 俺は性格が良いので、俺と話している人がそれを理由に楽しくなってくれると嬉しいです。だけど俺は人の気持ちがよく判らないので、その結果、寧ろ人を怒らせてしまう事も多い気がしていて、それは少し悲しいです。「他人との会話」という話題に関連して、俺ってとっさに言った一言で人を不快にさせてしまう事も割と有るという自覚が有る一方で、それを気にし過ぎると今度は人とのコミュニケイションに齟齬が出るから気にし過ぎない様にもしていて、この辺の匙加減も難しいと感じています。「それだけ考えてやってんのがあんな会話かよw」みたいな火の玉ストレートなツッコミは無しの方向でいきましょう。

某カルト宗教と某政権与党についての小言。

 俺は基本的に強い政治家はそれなりに悪さをするものだと思っているので、某カルト宗教との関わりについても「何か都合良い連中だったから付き合ってきたけど、めっちゃ叩かれるしもう付き合うの止めるわ」みたいな感じになってくれるのなら、この件はそれで良いと思っています。 しかしながら、仮に某政権与党が思想的に影響を受け始めてしまっているのなら、これ以上、この党に政治をお任せするのは善くないんじゃないかと思います。 そして、マザームーン山本さんの表情や改憲案の内容を見る限り、俺は後者の可能性もそこそこ在るんじゃないかと危惧しています。

何故俺はヴイチューバーや現実のアイドルを好きになれないのか?

 時々、明言する様に、俺はかなりちゃんとした「萌えオタク」なのですが、一方で(例えばここでも仄めかしている様に)萌えオタクの代表的信仰対象である「ヴイチューバー」「現実のアイドル」の事は、一切、好きになりたいと思えないのです。今回はこの現象についての自己分析を文章化してみようと思います。

 一言で言ってしまうと、俺がヴイチューバーや現実のアイドルを好きになれない理由は、人間不信だからでしょう。 以下「騙す」という動詞は「(俺が個人的に)善くないと思う行為をする事」とします。*1さて、俺は誰かに騙されたと思った時、その誰かにちゃんと人格が入っていた場合、割とちゃんと傷付くタイプの人間です。*2一方で、仮にアニメキャラ等に(作中での言動等により)「騙された」と思ったところで、所詮は人格が入っていない対象である事から、そう深く傷付く事は無いでしょう。そして俺は心がそれなりに弱いので、基本的に「自分が傷付く事からは逃げたい」と考えてしまう人間です。まあ要するに典型的なコミュ障二次元オンリーオタクって事ですね。以上で、タイトルの疑問文に対する返答のスケッチは与えた事になると思います。

 返答をより掘り下げます。これも過去にブログの何処かに書きましたが、俺は「信用する」という動詞を「騙されても許す」という意味で使用しています。この意味で、仮に実在の他人を悉く信用しない場合、社会生活が成立しないため、勿論、俺も実在の他人を信用する事は有ります。しかし俺が他人を信用する、或いは「この人の事は信用したい」と思う為には、基本的には「複数回の個人的な会話をした事が有る事」が必要なのです。そして「実在の他人を好きになる/応援する」という行為は、この「信用する」という行為と中々に切り離す事が難しいので、矢張り実際に個人的な会話をした事が無いヴイチューバーや現実のアイドルを好きになる事は難しいです。以上で、タイトルの疑問文に対する返答の詳細も与えた事になると思います。

 次に「では俺は現実に会話した事が有る人間の事しか好きにならないのか」という疑問について書いてみます。結論から言うと、決してそんな事は無く、例外的に「会話をした事が無い他人」を好きになる事も有ります。その「例外」になり得るのは「俺が「価値が有る」と理性側で信じている能力が高い人物」です。例えば「高さ函数を評価する能力」「SASUKEの能力」「短距離走の能力」は、俺が理性側で「価値が有る」と信じている能力の例です。「理性側」という単語を強調しました。つまり「価値が有る」と思っているけど、その感情が理性に由来していないものも幾つか有ります。その代表的なものが「可愛い」です。俺は明らかに「女の子が可愛い」という事に価値を感じますが、この感情は理性ではなく衝動、もっと言えば性欲に由来するものです。そして俺は「他人を好きになる/信用する」という自分のリスクになり得る行為の基準に、衝動を混ぜたくはないんですよねえ。以下、更なる例とそれに対する考察を幾つか:

  1. ドラマの登場人物も(少なくともヴイチューバーやアイドルよりは)俺の中で演者とキャラクターの人格を切り離す事が出来るので、好きになれます(ドラゴン桜2の藤井とか本当に大好きです)。但し「アニメの方が絵が可愛い」という理由で、俺はドラマは普段は殆ど見ません。*3
  2. AV女優さんを含む性産業に従事する女性も、結構ちゃんと好きです。これは、彼女達が「性を晒す」というリスクを取っている生き様に、敬意に由来する理性的な価値を見出す事が出来るからです。関連して、てめーの面すら出さねえヴイチューバーは、矢張り基本的には好きになりたくはないですねえ。
  3. 音楽、漫画、イラスト、ゲームといった幻術作品は、基本的には作者と作品を切り離して考える事が出来るので、作品側を好きになる事は(当然、沢山)有ります。但し、俺はこの事を強調する為に「誰々(作者名)が好き」ではなく「誰々の作品の中に好きなものが多い」という言い回しを、日常会話の中では採用する事が多いです。アニメキャラも、上で述べた様な人物としての人格の有無よりも、寧ろこの様な「作者から切り離された作品」として見ている事も多い気がします。但し、俺はエロ漫画家をさん付けで呼び敬意を表する事が多いのですが、この現象はここ迄に述べた理屈に全然乗っていない気がします。表現の芸術性に対する理性的評価?
  4. 「最早、裏切られる心配は無い(無さそう)」という意味で、故人や引退したヴイチューバーとかなら好きになれると思います。

 

 っつー事で色々書きましたが、うーん、こうして自分の``感情''を文章化するの、何か「分析している」というよりは、寧ろ「結局は極々主観的で振れ振れな自分の感情に対して、単に屁理屈をこねくり回して``一貫性''を持たせようとしているだけ」な気もしています。要は「言い訳」ですね。しかしながら、仮にそうであったとしても、こうしてはっきりと文章化して公開する事で、以降は本当に書いただけの分はちゃんと一貫性を持って行動しようと襟を正す事は出来る気がするので、無意味ではないと信じる事にしましょうか。

*1:ここで、この手の偶像的職業の人物を論じる際にしばしば話題となる「彼氏を作る」「彼氏がいるのにそれを言わずに活動する」という行為を、俺は「善くない」とは思わない、という立場を取っている事を注意しておきます。この立場は「この種の「女性に対する恋愛的嫉妬心」を表に出す男はダサい」という俺の主観的信条に由来します。但し「彼氏がいるにも拘らず``彼氏はいない''と明言して活動する事」は、単純に嘘を吐いているため、そこそこ善くないとは思います(つっても大した事ねーと思うけど)。

*2:例えば、自分が応援していたアイドルが、おばさんになった時に過去の栄光にしがみついてwithout philosophyな状態で選挙に出馬したりした日には、俺はとても嫌な気分になる事でしょう。

*3:前にツイッターで触れた事が有りますが「現実の格闘技のチャンピオンと刃牙(二次元)のどっちが強いか?」って、そんなもん、強く描いている二次元の方が強いに決まっていて、これは「強さ」ではなく「可愛さ」という属性についても同様だと思います。

他者を数字化して優越感の肥やしとして消費する事について。

 本ブログは3つの段落から構成されています。第1段落は本題への導入としての経験談であり、重要な部分ではありません。第2段落がタイトルでもある「他者を数字化して優越感の肥やしとして消費する事」についてです。最終第3段落は、転じて「数字化され消費される大衆」について書いています。

 最近、セミナーとかに出ると「岡﨑さんですよね?ツイッター知ってます!」と(俺は知らない)人から話しかけられる事が多くなってきました。恐らく、俺が実名でツイッターをしている事が原因だと思います。*1先ず、俺は個人的に「数学関係者が数学の能力や実績以外の理由で知名度を得る事はダサい」という考えの人間です。そして、それこそ広く知られている様に、俺の数学の能力は、数学者志望の中では決して高いものではありません。*2実績については1つ1流のものが有りますが、これは運と共著者に恵まれた故のものであり、今後もこの様な研究を続けられるという客観的根拠は、現時点では無いと思います(いや絶対やるけどね)。従って、俺は現在、正に「数学の能力は低いのに、何か一寸知られちゃってる人間」になってしまっている気がします。

 しかしながら、俺がこの現状に於いて真に悲しいのは、こうして「岡﨑さんですよね?ツイッター知ってます!」とか言われた時に、何なら一瞬、一寸嬉しいと思ってしまう自分がいるところです。俺は如何しても、この「俺は相手を知らないのに、相手は俺を知っている」というアンバランスな関係性に、優越感を見出してしまいます。これに限りません。俺はツイッターで「いいね」が付くと、如何しても一寸嬉しいのです。俺はこういう、何処迄も俗物的な俺という人間の事が、本当に大嫌いです。*3この俗物的感情は正に、タイトルの「他者を数字化して優越感の肥やしとして消費する事」への欲求に他ならないと考えます。この欲求は社会に広く一般的なものとして浸透しており、それは例えば「フォロアー数マウント」「再生数自慢」等の形で世に現れています。しかしながらこの欲求は、最終的にはカルト宗教や独裁政治へと繋がる非常に危険なものであると俺には思え、だからこそ、個々人が一線を越えない様にコントロールすべきものであると信じています。

 さて、この欲求のコントロールは、欲求を抱く側のみの責任であるとは俺は思いません。というのも、この欲求が満たされる為には「数字化される他者」の存在が不可欠であるからです。即ち、数字化され得る大衆側にも、この欲求のコントロールへの責任が課されて然るべきだと思うのです。勿論、我々は文明社会で生きる以上、如何しても数字化され消費される事を回避し得ない場合も在ります(寧ろこちらの場合の方が圧倒的多数?)。ワクチンを摂取すれば「3回目摂取者数」といった形で消費されますし、真に創造的であると信じる研究活動ですら「引用数」「○○年度の△△大学の査読付き論文発表数」みたいな形で、単なる数字として消費されていきます。しかしながら、例えば、カルト宗教を信じてしまう事、知名度だけの無能なアイドル候補に選挙で投票してしまう事や、反社会的な炎上動画を再生して結果的に投稿者に利益をもたらす事等は、明らかに数字側も強く糾弾されるべき状況であると信じています。こういう「自身を数字化し消費する相手」を適切に理性で選ばずに行動を起こす人間を、俺は最近、勝手に「プライドが低い大衆」と呼んでいます。そして俺には、世の中には「プライドが低いまま、自分がこうして数字化され他者の優越感の肥やしとして消費される事に違和感を抱かない人間」がとても多いと感じられてなりません。俺はたとえ凡庸な大衆であっても、このプライドが低い大衆にだけはなりたくないです。しかしこの先、社会に出て圧力を受けながら生きていく中で、凡庸な俺がこのプライドを何処迄守っていく事が出来るのかは、全く判りません。

 とまあ以上、俺が日頃から抱いている感情を1つ文章化してみたのですが、うーん、俺が病的に自意識過剰なだけなのでしょうか...?*4

 

(追記)

俺は母ちゃんに「自分がやられて嫌な事は人にするな」と言われ育てられ、これは現在では俺の中での基本的教義となっています。ところで、上記の通り、俺は他者に自分が単に優越感の肥やしとして消費される事を基本的には嫌っている人間です。そして、第2段落で述べた様に、俺は根本的には他者を優越感の肥やしとして消費する事に対する欲求を持った人間です。従って、教義と欲求の矛盾にしばしば不快な思いをする訳ですが、こうしてこの矛盾にちゃんと不快感を抱く自分の事は、矢張り大好きです。

 

(追々記)

とは言っても、俺の「数字として消費されたくない」という感情の強さは、矢張り中々に強く病的な方だと思います。例えば、数学関係者ってほぼ例外無く「偉い先生の講演だから皆で聴きに行こう」みたいな感じなのですが、俺的には「何で俺の事を知りもしない大先生閣下の講演なんぞに俺の1時間を差し出してやらにゃならんのじゃ?」みたいな感じですまじで。いや分野めっちゃ近いとかなら(純粋に数学の内容への興味により)寧ろ余裕で行きたいんですが「岩澤理論の大先生」とかまじで意味判らんわ。てか聴いたところで大先生閣下の有り難いお話とか俺みたいな凡庸大衆には何も解らんし。いやこんな事書いてるの、実は何年か前に九大に来た某大先生の講演を周りの雰囲気に釣られて聴きに行ってしまった事が有ったからなんです。あれはまじで、当時の俺の人格の薄さを代表する俺的ハイパー黒歴史だと思っていて、従ってこの事への自己批判のつもりで書きました。

*1:信仰上の理由により、俺は個人の思想を述べ得る場面では必ず実名を名乗る様にしています。

*2:俺は代数幾何はまじで使えません。代数的整数論も下の体が有理数体の場合しかまともにフォローした事が無く、下の体も一般的な代数体の場合は、それこそ最近、やっとこさ証明抜きで一通りフォローしたばかりです。函数体は現時点ではまじで無理です(ガロア理論を勉強した時に純非分離拡大の例として弄った事しか無い)。楕円曲線もまともに勉強したのは有理数体上のモーデルの定理だけで、しかも弱モーデルは完全に忘れました。いやてか学部レヴェルの内容についても、複素や微分多様体は全部忘れました(流石に成績は良かったです。前者は就活に必要だから近く思い出します)。てかそもそも多変数の微積もまともに覚えてねえ!ふぁー!

*3:と同時に、こういう自分を理性側でちゃんと嫌おうとする自分の事は大好きです。

*4:何か締めが「俺って変わってる?」みたいな「変わってる自分アピール」みたいでキモいですね。こういう考えの人間、多数ではないだろうけど一定割合は確実にいて、別段、珍しいものではないだろうという自覚が有ります。と言うか俺は「他と違う変な人間」には憧れますが、上記の様な「能力や実績に由らない、単なる考え方」のみを以て「変な人間」になる事は出来ないと信じています。社会的に能力が高い人間が自分の思想の話をすると、プライドが低い大衆はよく``やっぱ誰々は考え方が違う''みたいな言い方をしますが、似た様な考え方の人間自体は探せば幾らでもいる筈です。なので、言った内容それ自体に意味が有るのではなく、その「能力が高い人」が言ったから意味が有るのです。「何を言ったかよりも、誰が言ったかの方が大事」なのです。あー俺も「誰」になりてー。従って、未だ誰でもないこの俺が書いているこのブログの文章にも、本質的な意味は有りません。悲しい!

漫画「恋する小惑星」を読んで。

 「恋する小惑星」という漫画(及びそれを原作としたアニメ)作品が在ります。内容は、地学部に所属する可愛い女子高生達が、天文、地質、気象に関連する部活動を行う様を描いたものです。物語の進行と共に作中の時間も進行し、従って当初は高校1年生だった主人公達は、2年、3年と学年も上がっていきます。物語中で劇的な出来事が発生する類いの作品ではなく、登場人物達の学生生活が素朴に描かれた作品なのですが、兎に角、その描かれ方が素晴らしいのです。彼女達は本当にちゃんと地学が好きで、その様が下手に着飾る事無く、しかしストレートに表現されている事が、この作品の大きな魅力です。そして何よりも、彼女達はちゃんと頭が良いのです。学生生活を送る中には、進級や進路、そして能力の差といった悩みの種が幾つか存在する訳ですが、彼女達のそれ等への対応が、兎に角、素晴らしい。勿論、年齢相応のネガティヴな内面も描かれはするのですが、それにいつ迄もくよくよする事無く、確りと情熱と理屈を備えた解決策を見付け出し、それを実行していくのです。特に、3年生の先輩が部活動を引退し、新たに部長に任命された作中の登場人物であるイノ先輩の、自身の能力への不安を解消する為の手段として「地学オリンピックへの挑戦」を実行したところなんか、本当に素敵過ぎます。てかイノ先輩可愛いです。真面目な後輩キャラのナナちゃんが環水平アークに感動し、その後の遠藤先生とのやり取りで少し柔らかくなっていくシーンも大好きです。てかナナちゃんと遠藤先生みたいな、(以前は)一寸固めの真面目系(でした)みたいなキャラ、まじで好きなんですよね。環水平アークのシーンの遠藤先生、きっとナナちゃんが昔の自分に似ていて、可愛かったんでしょうねえ。一方で、そんな遠藤先生が、沖縄出張の時に素の真面目な自分が一寸出てるシーンとかも、凄く可愛くて好きです。そしてこの作品を語る上で絶対に外せないのは、矢張り掴みの強力さでしょう。ネタバレ防止の為にこれ以上は書きませんが、兎に角、物語の1番初めの主人公2人による掴みが、極めて強力です。

 いや本当に素晴らしい作品です。時々、ブログにも書く様に、俺は「頭が良くて可愛い女の子」が兎に角、大好きで、本作品は正にそういう女の子達の物語なのです。アニメの方についても、俺はこれ迄にそれなりの量のアニメを観てきたのですが、俺的トップ3の作品です(後2つは「ウマ娘2期」と「月がきれい」)。*1という事で、昨日も寝る前に漫画を読んでいたのですが、不意に、只々純粋に地学が好きでそれを楽しんでいる彼女達と、数学を嫉妬や打算といったネガティヴな感情と如何しても切り離せない自分を比べてしまって、何だか悲しくなって泣けてきてしまったのです。いや、俺が数学(と言うか勉強)に本気で取り組みだした切っ掛けは、他人を見下して優越感に浸る為だった訳で、そういう星の下に生まれた人間だっつー事は仕方無いし、普段は特に何とも思わないのですが、でも矢張り時々、只々純粋に学問を楽しんでいる人達に、或る種の憧れみたいな感情を抱いたりもするんですよねえ。まあでも、現実に本当に一切の汚い感情無く学問を楽しめている人って本当に一握りな気がするので、そういう意味では、フィクションならではの綺麗な物語であると言える気もしなくは無いです(だからこそ憧れるのか)。

 すみません、若干、自分語りが入りましたが、兎に角「恋する小惑星」は、頭が良くて可愛い女の子が好きな全ての人にお薦めしたい作品です。

*1:ブログを書いてて気付いたのですが、(エロ以外で)俺が関心の有る3大テーマって、恐らく「学問」「スポーツ」「恋愛」の3つで、この3つの作品が正にこれ等に各々、対応しているんですね。あーいやでももう1個「熱くて格好良いファンタジー」が未だアニメだと無い気がするな。でも「ファンタジー」って「テーマ」ではない気もするな。「熱い」はウマ娘2期で満たされている気もするし。まあこうやって無理に分類する必要も無いかなあ。

とても面白い夢。

 (俺的に)とても面白い夢を見たので、折角なので忘れない様に簡単にメモしておきます:

・昔好きだった女の子と一緒に出掛ける夢。

・一緒にいる途中で俺がうんこを漏らす。

・悟られない様に「トイレに行きたい」とだけ言って一旦分かれてトイレを探す。

・全く見付からない。

・途中で男性と女性のマークが描かれた場所が在ったので、トイレだと思って入るとメンズエステだった。

・駅員さんに聞いてやっとトイレの位置を知るも(駅構内みたいなところで探していたみたいです)、トイレの前には長蛇の列ができている。

・並んでいると、途中で割り込みをしてきたっぽい見た目が元気そうな男の子がいて、こっちも急いでいるもんだから突き飛ばして「ふざけんな」とキレてしまう。

・しかし、如何やら2列が途中で合流する形で皆並んでいたらしく、直後にその事実を認識した俺は、めっちゃ謝った。

・その後、無事にトイレに入れたのだが、そのトイレが完全なぼっとん便所な上に、隣の人との仕切りだ何だも一切無く、しかも床に普通にうんこ散乱してるみたいな「いつの時代の便所だよ!」と突っ込みたくなる様な劣悪なものだった。

・てか夢の中では何の疑問も持たなかったのですが、ぼっとんどころかでかい穴の上に幾つか簡易的な足場を設置しただけな感じだったので、普通に落ちそうで危ない作りだった気がする。

・うんこをして(あんま出なかったわ)、ケツを拭こうとするも、トイレットペーパーも共用で、歩いて移動しないと取れない位置に在る。

・何故かそのトイレには監視員みたいなおばちゃんが何人かいて、ケツを拭いていたら何かを注意された(注意の内容は忘れてしまいました)。

・トイレを出ようとすると、そのトイレ、定期的に男性用と女性用で切り替わるみたいで、俺が切り替わる前の最後の男性だったらしく、ぞろぞろと女の人が入ってきておっ始めた(仕切りとか無いので丸見え!)。

・猛ダッシュでその女の子の所に戻るも、信じられないくらい時間が経過していた(時計は夜の9時16分でした。小さい自然数の平方が並んでいた)。

・分かれる前の彼女は俺が知っている姿(i.e., 10代)だったが、再開した時は成長していた気がする(俺はもうずっとその子に会っていないので、この時点で既に実在の人物とは別物であると考えるべきであろう)。

・彼女は未だ待っていてくれて、情け無さと申し訳無さで泣き出した俺に優しい言葉を掛けてくれる。

・遅くなったので帰る事になるのだが、帰りの電車で幾つかの会話を交わしているところで目が覚めた。

 

 

 1つ白状をしておくと、実はこの女の子、未だにたまに夢に出て来る事が有ります。しかしそれは、俺の人生で一定以上の交流を持った事が有る家族以外の異性が彼女しかいない事が原因であると思われます。従って、彼女に対して何か未練が有るという事は無いと信じてはいるのですが、如何せん、ここ何年かは自分の事をメタに見ようとする癖のせいで、「腹が減った」「えっちなものを見たい」「面倒臭い」みたいな単純な感情以外の自分の本心というものがよく判らなくなってしまっているので、*1正確なところについては何とも言えません。

 と言う事で、これ迄見てきた夢の中でも中々に恥ずかしい内容である一方で、夢特有の「舞台や人物の唐突な置換」といった現象が比較的少なく、物語としての一貫性も有ったため、大変興味深く、従ってメモしておきました。

*1:「数学が好き」という俺にとってとても基本的であると思われる感情にすら、つい最近迄、自信を持てずにいました。但しこれについては、「判らなくなった」というよりも寧ろ「判っていないという事に気付けた」というのが正確な認識なのではないかとも思っています。