予備校講師採用試験に2回落ちた九大チンカス研究員の入試数学語り。

毒舌、下ネタ注意。※年々自信を失い、それに伴って毒もマイルドになってきています。

女性と会話をする機会を作る努力をしたい。

 恥ずかしながら、俺はまじで(年齢が近い)女性と会話をする機会が殆ど無い人生を(少なくとも最近10年以上)歩んできてしまっている。なので、学位や進路関連の事が落ち着いたら、色々な女性と会話をする機会を作る努力をしたいと考えている。最近、判った事なのだけど、俺みたいな30手前の男性の場合、最早お金を払わないとその様な機会を得る事すら難しいらしい。従って、この様な行動を起こすに当たって、先ずは自分の生活費を自分で稼げる様になる事が、最低限、必要だと考えている。*1

 この様な機会を得られた際の取り敢えずの目標として、巷で言われる``女心''なるものが(俺に認知可能なものとして)存在するのか否かを知りたい。仮にそれが存在するのなら、特に「世の女性が何を面白い/価値が有ると感じるのか。それ等に対して、彼女等は如何リアクションを取っているのか」とか「俺が興味を持っている対象について、俺が抱く感想と女性のそれとの間にどんな差が在るのか」とかを詳しく聞いて知りたい。「好きなものについて自分の言葉で詳しく話をしてもらう」という事をしてくれるととても嬉しいのだけど、これは俺の大学院生根性から生じる歪んだ欲求である可能性が在るので、慎重になるべきだと思う。先ずは、何でも良いので女性自身の事について、その女性自身の言葉で話しているところを聞いてみたい。

 後は、俺は漠然と(主に俺自身の人間性、倫理観、持ち合わせている遺伝子の優劣の問題から)「自分は女性との交際や結婚に値する人間ではない」と思い込んでいるのだけど、これは色々な女性と会話をしてみない事には最終的な結論を出せない類いのものであると思うので、この点についても興味が有る。但し、この欲求はより高度なものであり、取り敢えずは色々な女性と会話をさせてもらう機会を作り、その機会を十分に活かす事に興味を集中させるべきだと考えている。

 兎に角、俺は本当に女性について実態の伴った知見を殆ど持ち合わせていないので、先ずは関わりを持たずしては何も始まらないと思う。何も判らん。

*1:いい歳したおっさんが親の金を使ってこの様な活動に手を出す事は人道に反すると思う。後は、一応「ナンパ」という手段も考えてはみたのだけど、俺みたいな男男した風貌の男性が突然声を掛ける事は、女性に恐怖感や嫌悪感を与えかねない気がするので、この手段についてはかなり慎重になるべきだと思う。

納得作業。

 「1/2+1/3」という分数の足し算、勿論、殆どの日本人は通分して答は出せると思うのですが、「何故通分して分母を合わせるのか?」という事を納得している人間は、如何やらそんなに多くはないみたいなのです。

 さて、お得意の自分語りですが、俺は小学生の頃、これを習った時に、確か家で「2等分されたピザを3等分して、また3等分されたピザを2等分してみたいな絵を描いたりして、自分で納得する」という作業をしました。教師に言われた事を自分で納得せずに猿真似する事が、兎に角嫌だったので。代わりに宿題の算数ドリルは一切しなかったので、勿論、テストの点数は(公立小学校で!)ずっと下の方でした。一方で100点とか取る連中がいたので、漠然と「こいつ等は俺が家でやった事を塾で先に習ったり授業を聞いて直ぐに解ったりしているのか~」とか思っていました。しかし、中学に入ってスパルタ塾に入れられた途端、俺の成績は学年1位になりました。

 これは高校についても同様です。授業で解らない事が有る度に、授業に付いていく事を無視して「自分で勝手に点から直線に垂線を下した絵を描いて延々と計算してみたり、或いはグラフで囲まれた領域を小さな長方形に分けてみたり」という様な事をしていました。なので高2以降くらいから数学の成績はずっと赤点付近で、一方で周りにはちゃんと点数を取っている連中がいる。「やっぱ県船*1は凄いな~」とか思っていたのですが、でも浪人した途端に(一緒に浪人した連中がほぼ現状維持くらいだったのに)俺だけ偏差値30上がったり、数学科に入っても同じくらいのレヴェルの高校出身の連中が悉く大学の数学で失敗している中で、俺は(少なくとも学部前半の内は)数学自体での挫折は殆ど有りませんでした*2

 確かに中学、浪人、学部と俺は凄く勉強はしました。でも、それだけではあれ等の逆転の仕方は如何にも説明し難い。かと言ってIQテストとかしても俺は平均+αくらいの数字しか出ないので、如何やら天与の才能の違いという訳でもないらしい。その原因がずっと不明だったのですが、最近、非常勤とかTAとかで学生を観察する様になって、或る説が浮上しています。つまり、俺が一寸勉強したら直ぐに逆転出来た系の人達は、俺が(勉強する上で当然の前提だと思ってきた)「自分で納得する」という作業をせずに``勉強''をしてきたのではないか?」という事です。彼/彼女等は「先生が言っているから」という只それだけの理由で、何も考えずに通分をしたり積分で面積計算をしてきたのではなかろうか?仮にそうだとしたら、一方でその「納得作業」をこなした人間が更に量をこなした時に負ける筈が無い。

 結局、俺と(学力的な意味での)平均的な日本人とを隔てている壁は、能力ではなく「教師を信用しない」という性格と、それに由来する勉強への態度の積み重ねに由るものに過ぎなかったのではなかろうか。一方で、数学者なんてのは、それこそ先程の「通分する意味」みたいなのをまじで授業で聞いた瞬間に理解してきた様な人間が殆どな気がするので、そりゃあ正攻法じゃ俺が太刀打ち出来ない訳です。こうやって自分の過去や現在で起きた現象を確りと分析していくと、何だかスッキリしますねえ。

 纏め:俺がお勉強が得意だった理由は、持ち前のちょい病的な人間不信。

*1:俺の通っていた高校。偏差値70くらい。

*2:くがみやざきに出会った衝撃は数学自体とは関係無いし、背伸びして上の学年のガロア理論の講義に出て玉砕した時くらいですかねえ。

数学の「王道」

 数学には「王道」と見做されている分野が在ります。特に俺が身を置いている分野である数論では、``岩澤理論''、``ガロア表現''、``モジュラー形式''、``ゼータ函数''とかですかね*1。先生方や先輩方で、これ等の数学の「数学的重要性」を説いて俺にお勧めをしてくれる方が割といるのですが、俺は「皆やっているから」という(数学の内容とは一切関係無い)理由により、これ等に人生を割く予定は有りません。 こういう事をやったところで、俺は優秀な人達の完全下位互換にしかなれません。序列がはっきりついてしまう世界で勝負する事は、(俺の才能では)得策ではないと判断しています。こういう世界に俺の居場所は無い。頑張って論文を書いたところで、それ等が価値を持ち続ける可能性はほぼ無いと言って良いと思います。数学の世界に生きた価値が無い。

 一方で、親しい友人でこの世界に十分太刀打ち出来そうなのが何人かいて、俺はそいつ等の事はまじで応援しています。 俺は性格的に知らない人を応援する事はほぼ出来ないのですが、一方で(アイドルやスポーツ選手を応援するファンと同じ様に)「誰かを応援したい」みたいな欲求も恐らく持ち合わせているので、これを身近な人間で満たそうとしているのだと思います。``応援している''という表現も、或いは少し良い人振った表現かも知れません。要は「俺が「勝てない」と思わされたこいつ等が、この恐ろしい世界で何処迄戦えるのかを見てみたい*2」みたいな感じです。

 

注意:一応、言っておきますが、俺は自分の分野が``脇道''だとは微塵も思っていません。単に日本で流行っていない(後、技術的にそんなに高度でない)だけで、数学の内容的にはちゃんと良い分野だと思っています。まあだから「1. 内容はちゃんと良くて(と少なくとも自分は思えて);2. しかも技術は割と簡単なもので済んで;3. その上、周りと被らない」というものが既に在るので、態々2, 3の良さを捨てたところに行く意味が無いと思っています*3

 

追記:序でに毒も一寸吐いておきましょうか。「自分がよく知っている分野でなら数学的興味だけからくる研究を称賛するのに、自分のよく知らない分野の研究には途端に応用の存在を要求する」というタイプの研究者が意外といるのではないかと危惧しています。「自分の好みによって判断基準が振れていて、しかもそういう事をセルフチェックする習慣も無さそう」という事で、俺はそういう人は(その分野での能力がどんなに高くとも)ちゃんと頭は悪いと思います。「単に俺が人間不信というだけで、そんな研究者は滅多にいませんよ」というのが現実の世界だと良いのですが、さて。

*1:クウォウテイションマーク``''は「俺は一切知らない」という事を意味しているつもりです。

*2:これは俺自身の言葉ではなく、とある友人の発言を借りた表現です。

*3:ただ2については「或る程度深い事をやるには、矢張りそれなりに難しい基本技術をちゃんと勉強する努力が必要だなあ」と思わされている今日この頃です。矢張り数学はしんどい。

入試数学への興味。

 今気付いたんだけど、今年、大学への数学の22年入試のレヴュー読みに行ってねえわ。こんなブログやっててあれだけど、何か多分もう、まじで入試数学に興味無いんだと思うわ。だってノースコットナンバーの評価をする方が(俺の中では)遥かに価値が有って格好良いんだもん。入試数学は他にやっている人沢山いるしね。

 学歴が如何でも良くなってきた事も関係在るかも知れねえ。明らかに肩書よりもその人個人の能力とか人間性の方が興味が有るし、となると18,9歳の頃の一時的な(それも学力だけの)指標に過ぎない出身大学名って、基本的には後者よりも前者に近いものな気がするしねえ(勿論、出身者全体で平均を見れば、人間性やら含め明らかに相関は在るだろうけど)。昔はFランと見下していた理科大とかマーチの人で、俺よりも遥かに数学出来て人としても立派な人を何人も知っています。結局、大学入ってから如何過ごすかですよね。

 但し「如何でも良くなってきた」とは言ったけど、矢張り一般論として、大学行くならまあまあの所には行った方が良い気がします。これは肩書云々じゃなくて、周りの友達とか指導体制とかを考えての話です。特に大学にちゃんと勉強しに行きたいのなら「勉強出来るってすげー」みたいな価値観が多数派のとこに行かないと、色々としんどい気がします。これが当てはまるのが具体的にどの大学なのか、俺にははっきりとは判りませんが(取り敢えず九大は該当していると思う)、まあ例えばオープンキャンパスとかって、こういう大学の雰囲気を知る為に使うってのが賢かったんだろうなあ、って最近は思います。

 

※東大京大九大だけは来年以降もちゃんと解きます。8年も続けてきたしね。

数検1級の問題?

 友達から直近の数検1級?の問題を出題されました。先に言っておきますが、俺は解けなかったし自力では一生解けなかったかも知れない類いの問題です:

 f(X)を全ての係数が非負の整数係数多項式とする。整数m,nを自由に選び、f(m), f(n)の値を見る事で、f(X)を決定出来る事を示せ。但し、nf(m)の値を見てから選んで良い。

 

(解説)

f(X):=a_dX^d+a_{d-1}X^{d-1}+\cdots+a_0とします。例えばm:=1, n:=f(1)+1とする事で、以下の様に特定出来ます。つまり、全ての係数が1以上であるという仮定からa_i\leq f(1) \lt n \ (0\leq {}^\forall i\leq d)であり、従ってf(n)=a_dn^d+a_{d-1}n^{d-1}+\cdots+a_0は、右辺が左辺のn進法表記になっている事が判ります(この「n進法表記である」ってとこに0\leq a_i \lt nが効いている。てかnf(1)よりでかけりゃ何でも良いとも判る)。なので、n進法表記の一意性から、左辺のn進法表記を計算する事で係数a_iは全部判る。

 

 

 俺は「(非負整数係数)多項式に(デカい)整数nを代入するとn進法表記に見える」というのが定石として頭に入っていなかったので、自力で解くにはここを運や頭の良さで突破する必要が在りました。なので、これは下手をすると一生解けない危険性も在った問題だと思います。大学入試の問題は基本的に既知の定石を組み合わせれば解けるものが殆どなので、(俺にとっては)それ等とは質的な難しさが全然違う問題でした。でも青文字の定石、思えばネーターの正規化定理(下記pdf参照)の証明で似た考えを使ってるんで、定石として頭に入れていなかっただけで、知ってはいたんですよね。勉強の詰めの甘さが出たと言うより有りません。と言うか、``多項式表示=テイラー展開''であり、整数論では整数n素数pに対して``\text{Spec}(\mathbb{Z})上の正則函数n\in\mathbb{Z}の点(p)\in\text{Spec}(\mathbb{Z})に於けるテイラー展開=np進法展開''なので、``多項式=進法展開''が連想出来ないってのは、一寸修行不足な気がしてきたわ。

 

ネーターの正規化定理(昔書いたpdfだから色々とダサいかも)

数学の「解る」とサイエンスの「解る」の違い。

 話を引っ張って恐縮なのですが、先日の某ドキュメンタリーに関連する話題です。あれについて「宇宙数学について``解った''」みたいな発言をしている人が見られたり、或いはユーチューブで「宇宙数学について``解説''します」なんて動画がわいたりしています。結論から言えば、あの番組では数学の解説は一切成されていないし、またその手の動画に数学の解説は一切含まれていません。なのに何故、この様な発言や動画がわいて出るのか、少し考えてみたので、それを書いてみます。

 恐らく、世の中の多くの人が「数学の理解」と「サイエンスの理解」を混同している事が原因なのではないかと考えられます。

 先ずは後者「サイエンスの理解」について、(人類が実行可能な)サイエンスは基本的に、観測結果を基に、帰納的に理論を構成します。ここで、この「観測結果から帰納された理論」が真に正しいか如何かを確かめる術を我々人類は持ち合わせておらず、(常に疑いの目を向けつつも)基本的には「理論部分の正しさは信じて、それを基に理論展開を行っていく」というのが、サイエンスの基本的な流れであると思います。*1なので我々一般人がサイエンス(理科)を学校で習った際には、(尤もらしい説明は色々と在ったかもだけど)最終的には教科書、参考書、教師の文言を信じるより他無かった訳です。*2即ち、我々人類に実行可能なサイエンスは、最終的には「帰納的な知を盲信する事」へと帰結され、これが我々のサイエンスに対する「理解」となります。

 一方で、数学は原理的には1行1行の正しさを全て自分で確認する事が出来ます。*3定理や公式には全て証明が付いていますし、何なら理学部数学科では「定義が定義になっているか?」っつーとこ迄疑って、確認作業をおっぱじめたりします(所謂「well-defined」の確認)。これが数学に於ける本来の「理解」です。しかしながら、多くの人はこの「数学の理解」を終ぞ身に付けずに学校教育から離れてしまっているのではないかと推察します。即ち、定理や公式の正しさを「自分で正しさを確認すべきものである」と認識せず、単に「教師が正しいといっているから正しい」というレヴェルの``理解''で終え続けてしまっている。つまり、先の「サイエンスに対する理解」と同様の方法を、数学に対しても適用してしまっている。「証明」の概念も「自分が正しさを納得する為の確認作業」ではなく、時速を求めたり方程式を解いたりするのと同列の、単なる「問題の形式」程度の認識しかされていないのではないのでしょうか。これが、自分が思う「解っていないのに``解った''と主張する系の人間」が発生する原因なのではないかと推察します。即ち、彼等は本当に解ったつもりでいて、その根拠は「ネットで調べたらそう書いてあるから」「沢山の専門家がそうだと言っているから」なのです。

 「数学の理解」に対する誤った認識が流布している事、これは明らかに我々数学側の人間に責任が有り、そして(現状の)我々の敗北でもある様に思われてなりません。

 

 以上、考えた事の言語化を何とか図ったのですが、段々と自分でも何言ってんのか解らなくなってきた。未だちゃんと考察を言語化出来てねえ。

 

追記: 

 思えば俺は、数学のこの「正しさを自分だけで確認する事が出来る」という部分にも、大いに惹かれてきた気がします。ずーっと(心の中で)教師達を馬鹿にしてきた人生だったので、彼/彼女等の言う事を単に信じる事がとても嫌で、しかし数学は唯一、この「教師の発言を信じる」という事を一切放棄しても展開する事が可能な教科でしたからね。

*1:勿論、その「帰納的に構成された理論」に``尤もらしい''説明を付ける事は出来得るし、実際に成される事が多いでしょうが、その``尤もらしさ''も、結局は(膨大な)観測結果に基く「帰納的な知」からくるものに過ぎません。後は「帰納的な知」を基にした``尤もらしい''予想も、サイエンスには含まれているんですかね?全然知らないから嘘かもだけど、恐らくは相対性理論とかビッグバンとかは、これなんじゃないですかね?

*2:まあ或いは、専門書を紐解いたり自分で実際に観測をしてみた人もいたかもだけど、結局は「帰納的な知」である事に変わりはありません。

*3:勿論、集合論の根本的な話とかは俺等も深く考えずに直観に基き信仰したりはしますけど。

「にわか」に対するネガティヴな感情を、NTR属性によって解消する事を目指す。

 先日、数学のとある有名な予想に関するドキュメンタリー番組が報道され、その予想の名前をツイッターで検索すると、まあ自分を``頭良く''見せようとしているであろう判った様なツイートが溢れていて、漠然とした不愉快な思いをする訳です。最近のこの手の連中は少々手が込んでいて、``見ていて全然わからなかったけど…''なんて言って少し謙虚振っているのが余計に腹が立ちます。これは「とは言っても私より全然理解しているのだろうなあ、やっぱ頭良いなあ」みたいな読み手の「好意的勘違い」を期待しているものと見て、ほぼ間違い無いでしょう(自分にもブーメランが飛んでくるかも知れない)。

 さて、この怒りは明らかに、一般論である「にわかに対する怒り」に他なりません。要は、自分が好きで他人よりも時間を掛けて取り組んでいるものを、何も知らない人間が「単に自分を大きく見せる為だけの手段」として用いている事に対する怒りです。もっと抽象化すれば「自分が大切にしているものを雑に扱われた事」に対する怒りです。これは少なくない人々に共感してもらえる類いの怒りだと思います。*1しかしながら、一般論として、コンテンツが成熟していく為には広く大衆に浸透していく事が不可欠ですし、その過程でにわかが生まれる事は、人類の性質上、絶対に避ける事は出来ないものであると思います。従って、一方で数学の社会的発展を願う我々数学関係者としては、この「にわかの発生」を甘んじて受け入れるより他無い訳です。そうなると、自らの精神衛生と鑑みて、この「にわかに対する怒り(もっと言うとネガティヴな感情)」は、自分の考え方の変更のみを以て何とか克服しておきたい。ここで個人的に注目したいのが、エロコンテンツを中心にマイナー性癖の中ではメジャーな性癖としての地位を確立しつつある「NTR属性」です。

 非専門家向けに、この「NTR属性」について極々簡単に解説しておきましょう。「NTR」とは「寝取られ」の略であり、即ち「NTR属性」とは「自分にとって大切な人(多くの場合はパートナーや片想いの相手)が自分以外の人間によって(主に性的に)蹂躙される事にエクスタシーを覚える」という性癖の事です。何を言っているか全く解らない方もおられるでしょうが、兎に角、こういう倒錯した異常性癖を抱える人間が、世の中には存在するのです。何を隠そうこの岡﨑も「NTR属性」に対して一定の共感を覚える人間です。そして、先の「NTR属性」の解説文の前半部分は、直ちに「自分が大切にしているものを雑に扱われる事」と抽象化する事が可能です!*2そうなってくると「数学にわか達が、数学を単に「自分を大きく見せる為だけの手段」として用いている事に対する怒りも、克服するどころか、何ならエクスタシーに変換する事すら可能なのではないか?」とか一寸思えてくる訳で、忘備録としてブログに書いてみました。

*1:しかし一方で、こういう怒りを抱いてしまう事が、人としての器の小ささや、或いは自分自身のそのコンテンツに対する何らかの後ろめたさ(例えば「他ならぬ自分自身も、そのコンテンツに真に真面目に取り組んでいない、という自覚が有る」等)を反映しているのだとも思います。

*2:この抽象化は、以前、とある異常性癖マスター(今はドクター)の方との対談中に指摘していただいたものである事を補足しておきます。