予備校講師採用試験に2回落ちた九大チンカス研究員の入試数学語り。

毒舌、下ネタ注意。※年々自信を失い、それに伴って毒もマイルドになってきています。

``数学的思考''について。

 頭の中で言語化されたので一寸文章化しておきます。因みに、この記事で「数学的思考」「非数学的思考」と呼ぶものは、恐らく「演繹的思考」「帰納的思考」と読み替えても大丈夫だと思います(寧ろこちらの方が一般的?)。

 

 例を挙げましょう。例えばプログラミングをしていて、コンパイルをしても上手くいかない。この時「プログラム1行1行の構文の役割をちゃんと確認し、上手くいかなかった理由をちゃんと突き止めた上でそこを修正する」というのが「数学的思考」、一方で「取り敢えず色々と書き換えてみたりして再度コンパイルし、上手くいったからそれでOK」というのが「非数学的思考」に近いと思われます。即ち「自分の行為1つ1つの理由をはっきりさせながらする思考」が「数学的思考」であり、「理由はさておき取り敢えず色々試してみて、上手くいけばOK」というのが「非数学的思考」でしょうかね。ここで1つ注意しておきたいのは「このテンプレートは正しいと認めて中身を確かめずに使う」というのは、この「自分はこのテンプレートの正しさを確認していない」という自覚をちゃんと持っていれば、数学的思考に於いて許される行為だと思っています。但し、これを完全な数学的思考と呼んで良い事の前提として「信頼出来る第三者によって、このテンプレートの正しさを数学的思考によって保証されている事」を課しておく事にします。

 

 さて、この2つ、恐らく実生活では明確な優劣は在りません。前者に拘っていると「遅い!」と叱られる事も在れば、後者でいって「ちゃんと自分で考えなきゃ駄目じゃない!」と叱られる事も在るでしょう。ここで、あらゆる自然科学は、原理的には完全な数学的思考のみには成り得ないと思われます。と言うのも(「「リンゴが落ちる」という事は正しいと認めて中身を確認せずに使う」というのは、先の定義により数学的思考と呼んで良いのですが)、人類は最終的には「リンゴは必ず落ちる」という事を数学的に証明する事が出来ないからです。「自然現象のルールを(観察等の)非数学的思考により予想し、その予想を正しいと認めた上で数学的思考による議論を積み重ねる学問」を「自然科学」の定義だと思って良いと思います(と言うか俺はそういう認識です)。一方で、数学でも「多分こんな感じだろう」みたいな非数学的思考による議論を行う事も(特に研究段階では)沢山在ります。ですが、こうした非数学的思考による議論は、いつかは必ず数学的思考による議論によって正当化される必要が在ります。この過程を経て初めて確たる価値を持った「定理」が生まれ、一方でこの過程を経ていないものは「予想」と呼ばれます。予想も(数学コミュニティの主観的な判断によって)十分な評価を得る事が在りますが、一方で単なる当てずっぽうを書き連ねているだけでは、矢張り評価される事は殆ど在りません。「数学者」と「トンデモ数学者」の大きな違いの1つは、この「数学的思考」「定理」と「非数学的思考」「予想」の区別が付いているかいないかだと言って良いと思います。「ラマヌジャン」という有名な数学者がいるのですが、彼は非数学的思考によって数学界の1つの頂点に到達した極めて稀有な例と言って良いと思います。数学の自然科学との大きな違いは「最終的な成果物が数学的思考による議論のみによって達成されている事」と言って良い気がします。この定義により、俺は「統計学」は基本的には数学ではなく自然科学と言うべきなのではないかと思っています。

 

 さて「数学的思考と非数学的思考に優劣は無く、また数学に於いてすら非数学的思考は十分な価値を持ち得る」という話をしましたが、その上で俺は「数学科という所は前者を身に付ける場である」と信じています。なので、後者の能力がどんなに高くても、前者を身に付けていない人間は矢張り評価されるべきではないと信じています。どんなに講義で扱う内容のレヴェルが低くなろうとも、これだけは理学部数学科が絶対に妥協してはならない最後の砦であると信じています。