予備校講師採用試験に2回落ちた九大チンカス研究員の入試数学語り。

毒舌、下ネタ注意。※年々自信を失い、それに伴って毒もマイルドになってきています。

まじの号泣。

 大人になると、感動してうるっとする事は有っても、まじの号泣って中々無いですよね。小学校以前の事はあまり覚えていないのですが、中学校以降でも、俺は6回、まじ泣きした事が有り*1、その記録も兼ねて少し自分語りをします。

 

 1回目と2回目は、シニアリーグというところで野球をしていた中学1年生の頃です。当時もそんなに運動は苦手ではなかった筈なのですが、太っていたのと、何より俺は野球のボールが恐かったせいで(じゃあ何でやってたんでしょうね)野球は滅茶苦茶下手で、それが原因でめっちゃ虐められていました。んで泣かされたのは、送迎中の車の中で5対1でボコボコに殴られた時と、合宿の夜に寝ていたら突然顔面をサッカーボールキックされて鼻血が出た時の2回です。いやがちの体育会系の虐めって「止めて」って言っても(比喩ではなく実際の)暴力を振るわれるんで、本当にやばかったですね。俺以外にも、前歯を折られた奴と目に何かされた奴がいました(失明はしていなかった)。この体験は、その後暫くの間、俺に「能力が低いと殴られる」「能力が低い奴は殴って良い」という考えを植え付けてくれちゃって、今思えば寧ろこっちにこそ困らされました。*2

 

 3回目は中学2年の頃です。経緯として、中学のある先輩が、当時、俺が仲が良かった女の子を好きだと公言して、んで俺がその先輩につっかかっていって揉めたのですが、あろう事かその先輩、部活中の俺に殴りかかってきて、そのせいで部活動中の問題として部全体が停部措置になったのです。

 んでこいつについての部内ミーティングの時にある友達が俺を泣きながら庇ってくれて、それにつられて俺も泣いちゃったんですよね。あいつ、元気してるんかねえ。*3

 

 4回目は高校のバドミントン部最後の大会で、県大会出場を懸けた試合にファイナルセットの末に負けた時です。自分達のスペースに戻った後、ダブルスのペアの後輩の前で滅茶苦茶に泣いてしまいました。いやー青春って感じで、今思えば本当に良い思い出です。

 

 5回目は浪人を経ての大学1年の頃です。経緯として、俺って中学1年の頃から右脚に「ガレー硬化性骨髄炎」という病気を抱えていました。*4これは自己免疫疾患の1種で、免疫が自分の骨を異物と判断して攻撃するというものです。症状としては「大体2,3ヶ月に1回、2,3週間の間、夜も眠れない程度の痛みがずっと続く」というものです。*5

 んで、九大病院の先生に「治療方法は無く、鎮痛剤による対処療法だ」と言われてしまい、その報告を母ちゃんに電話越しにしている時に、まあ滅茶苦茶に泣きましたねえ。*6これ、本当にしんどい病気で、病名も判明してやっと治療が出来ると思った矢先の出来事だったんで、かなり精神的にやられてしまいました。こいつは俺が部活や勉強について「これだけのハンデを抱えている俺にすら勝てないゴミ共」と周囲をボロクソに見下す拠り所にもなっていました。

 一応、その後の病気の経緯についてですが、セカンドオピニオンの為に大学を休学し他の病院に色々と相談をしていたところ、帝京大病院の骨髄炎の先生が「この種の免疫性疾患は年齢と共に落ち着く筈で、今後もずっと症状が出続けるとは思えない」と言ってくれて、その通り、その後は段々と症状が落ち着いていって、最後に症状が出たのは確か学部の終りか修士の初めくらいだった気がします。後は、悪い事ばかりではなくて、休学中に暇で数学をやってみたのが、数学科への転学部に繋がったりもしています。*7

 

 そして直近の6回目は、数学を諦めようとした昨年度の11月、これまた電話越しに母ちゃんと話している時ですかね。このブログを書いた手前です。記憶が新鮮ってのもあると思いますが、これが1番しんどかった気がします。1時間ぐらいずっと泣きじゃくっていて、後から聞いたところ、母ちゃんまじで「この子、このまま死んじゃうんじゃないか」と心配していたみたいです。「何も出来なかった」「生きててごめん」みたいな事をずっと言っていた気がします。いやー30手前のおっさん相手に母ちゃん本当に大変だな。

 

 

 こうして書き並べてみると、俺って基本的にネガティヴな事でしかまじ泣きってしてないですね。まあでも幾つかは良い思い出でもあるから良いかな。

*1:多いのか少ないのかは比較対象が無いので判りません。

*2:今は寧ろ自分がやられて嫌だった事は意識的にしない人間だと信じています。これが正しければ、それは「自分がやられて嫌な事は他人にするな」とずっと言い聞かせて育ててくれた母ちゃんのお陰だと思います。

*3:これだけ聞くと良い話な感じですが、少し脱線しておくと、当時の顧問の対応は、教員として善くなかったと思います。部員1人の問題に対して停部措置とかをしちゃうと、その部員への虐めに繋がる危険性が在ると思うからです。その教師は授業の方法についてもあまり良いやり方ではなかったと記憶しているので、教員としての質が低かったのではないかと今でも思います。

*4:つっても病名判ったのはこの年で、それ迄は原因不明でした。通常は顎に出る病気らしく、九大病院の先生も「論文を色々調べたけど、脚は初めてだ」と言っていました。

*5:どうもストレスにも連動していたらしく、浪人していた頃なんかもう1年の1/3くらい症状が出ていた気がします。それでも鎮痛剤飲んで毎日13時間半勉強していたので、当時の俺は本当に少し異常だったと思います。

*6:元々は「骨の癌かも知れない」と言われていたのですが、その時は「やったちゃんと病名が判りそうだ」って俺は寧ろ喜んでいましたね。父ちゃんと母ちゃんは滅茶苦茶心配していましたが。

*7:後は、学部の終りくらいからあまり脚を気にせずに運動出来る様になって、それが兎に角、とても幸せで楽しかったですね。数学がつらくても折れずに済んだの、やっぱ身体動かしてたのがでかかった気がしています。