予備校講師採用試験に2回落ちた九大チンカス研究員の入試数学語り。

毒舌、下ネタ注意。※年々自信を失い、それに伴って毒もマイルドになってきています。

俺より強え女が好き!

 以下は先日、某プロとの会話で得た知見です。(現実に効果が在るかは別として)異性にモテる為の手段として、男って割と「勉強して学力を上げる」ってのを思い付くと思うのですが、*1一方で女性でこの手段を採用する方って、恐らくかなり稀なのではなかろうかと思われます。これが事実だとすると、間違い無く男女の学力差に致命的な影響を及ぼす筈です。思春期人類のモテへの渇望の凄まじさは、多くの方が経験則として承知の事でしょう。これが一方の性では勉強への原動力として変換され、他方の性ではそうでないのだとしたら、ここから生じる差に疑いの余地は在りません。

 さて、この現象を生み出している第一の原因は、勿論、女性側に「(自分より)能力が高い男性が好き」という風潮がある一方で、男性側にそれが無い事に尽きるでしょう。*2この風潮の性差を生み出す男女の性質差が仮に全てジェンダーではなくセックスに由来するのだとしたら、これはもう、是正の余地はほぼ無いと言って良い気がします。*3女性が男性に身体能力で劣るのと同じ事です。しかし俺には、少なくともジェンダー側の寄与が0であるとはとても思えず、だとしたらここには是正の余地が在ります。*4

 ではタイトルを回収しましょう。即ち俺は、俺より強え女が好きです。ここで``強え''の定義を少なくとも俺の中では明確に得られてはいない事を補足しておきます。*5んで要は「この風潮、男の中で流行れよ」って事です。そしてこれは実際にちゃんと流行り得ると思うんですよね。いや男って見栄っ張りなのは間違い無いのですが、一方でちゃんとメンタルは(それこそ女性よりも)ちゃんとヘタレな場合が多いと思っているので、その見栄による外骨格をちゃんと取り払うだけの何か要素がちゃんと在れば、ちゃんとヘタレられると思うんですよね。これはマザコンやら結婚したら女房の尻に敷かれる男が多いという事が、正に状況証拠になっていると思うのです。

 一方でこの風潮には女性にもちゃんと責任が有る気がします。いや「私より頭が良い男が好き」みたいなの、若し在るんだとしたらまじ止めてください。それこそ「私が先に勉強して彼氏に勉強教えてあげるんだ」くらいの気概を持ってくれると嬉しいですね。まじ女の子にスキーム論教えてもらいたい。

 以上、バブみ記事でした。

*1:この「学力」の部分は、ひょっとしたら世で価値が在るとされている多くの別の能力に置き換え可能かも知れません。

*2:或いは「世の男女の各々がこの風潮の存在を信じている」と言った方が、より正確かも知れません。

*3:ここで、恐らくジェンダーとセックスに明確な境界が存在しないであろう事も注意しておきます。即ち、元はジェンダーに由来していたマインドの性差も、それが数世代に渡って続いてしまうと、ちゃんと遺伝子頻度レヴェルの性差に繋がってしまい得るからです。「進化は直ぐには起こらないけど、品種改良は数世代で起きてしまう」という事は、恐らく多くの方がご存じでしょう(品種``改良''と言ってしまうと少し誤解の余地が生じますが、これ以外の良い用語が思い付かないので、ここではこれを用います)。ここで、品種改良により生じた遺伝子頻度の差を「セックスによる差」と呼ぶ事が学問的な意味で適切であるか否かは、俺には判っていない事を白状しておきます。

*4:一方でセックス側の寄与が0である事についても、矢張りここでは完全に否定する事は避けておきます。

*5:一応「俺が価値が有ると主観的に認めている能力(例えば数学力、数学以外のちゃんとした学問の能力、物事を理屈で考える能力、身体能力、e.t.c....)が(少なくとも俺より)高い、且つ精神年齢が高い(例えば、先の能力の高さで以て他人を不必要に傷付けたりしない)」というのが有るのですが、突っ込まれると返答に困る未定義概念が多分に含まれているため、俺の中では未完成です。

二次元美少女文化のパブリックな発信の仕方について思う事。

 最近、``表現の自由''みたいな大袈裟な単語も持ち出されながら「二次元美少女文化を(例えば公共の場でのポスター等として)積極的に発信する」といった行為に関する議論が起こっています。結論から言うと、俺は「この様な行為はどちらかと言うと控えた方が良いんじゃないかなあ?」と思っている立場で、それについて一寸書いていこうと思います。

 先ず、(これはよく知られているかそうでないのか俺にはよく判らないのですが)俺は割とがっつりとした二次元美少女オタクです。*1これはツイッターのいいね欄を見ていただければほぼ明らかだと思います。歴もまあまあ長くて(15年以上?)、最初は「ひぐらしのなく頃に」とか「ゼロの使い魔」とかだったです。ポテンシャル的にはもっと長くて、遊戯王の女性カードを秘かに大事にしていたり、或いは妹が見る女児アニメを口では「えーまたこれ見るのー」とか言いながら実はポテンシャリー楽しみにしていた系です。*2

 自分語りはこれくらいにして、じゃあ何で二次元美少女文化好きである筈の俺が第1段落の様な考えを持っているのか、という話ですが、これは第2段落冒頭の「これはよく知られているのかそうでないのか判らない」という部分が少しポイントになっています。つまり、俺は「その気になって俺について少しでも調べようとした人に対しては自分の趣味を一切隠してはいないけど、自分から「俺は二次元美少女オタクだー!」みたいな事を他人に話したりパブリックに発信したりは殆どしていない」という態度の人間であり、この態度は或る種の信念(と言ったら大袈裟かも)から来ていて、そしてこの信念が先の考えに対する理由にもなっているのです。この信念とは簡単に言うと「性的な話題は決して恥ずかしいものではない一方で、(誰の目にも付く様な)まじでパブリックな発信はすべきではない」というものです。*3

 詳しい説明を書くに当たり、先ずは次の前提を認めてもらう事にしましょう:(俺を含む)多くの二次元美少女オタクは、基本的には二次元美少女キャラを好きな理由の根底に、性的な欲求が含まれている(``全て''とは言っていませんよ!)。そしてこれさえ認めてもらえるのだとしたら、先の信念自体にはかなり自然に到達し得るのではないかと思うのです。例えば、(パラレルな例えになっているかは一寸疑問ですが)若いご夫婦なんて存在は、そりゃもうほぼ自明に夜はえっちな事をしている訳ですが、一方で少なくともそれについて誰彼構わず話す事はしない、という文化を我々は共有している訳です。即ち「性的な話題というものは、``暗に明らか''であったとしても、それを敢えて口にするのは野暮である」という不文律を我々は共有しているのです。この不文律に対して更に理由付けを行う事は(少なくとも俺には)難しい事なのですが、でも、直接的な性的話題を苦手とする人は確実に(社会的に無視出来ない割合で)一定数いて、そして彼(女)等の感覚は決しておかしなものではないと思うので、そこに払われる(当然の)社会的配慮が、この不文律であるのだと推察しています。

 さて、以上ので説明した信念が第1段落の考えに至る為には1つの論理的ギャップが存在します。即ち「二次元美少女のイラストは性的であるか否か」という(ネット上でも議論の中心の1つとなる)問題です。これについては先ずはイラスト個々の表現に依ると思います。しかし、ネットで話題に挙がってきたイラストの多くは、例えば水着等の極端な薄着であったり、或いは現実ではほぼ実現不可能なおっぱいの強調描写(i.e., ``乳袋'')であったりといった表現が含まれているので、俺は(少なくとも若いご夫婦がそうであると自己紹介してくるよりは遥かに直接的な)性描写だと思います。*4まあでもこの判断は最終的には個人差に由るとしか思えないので、第1段落では「どちらかというと~じゃないかなあ?」という様に、かなりふわっとした表現をしたつもりです。また、二次元イラスト広告に対して異議を唱えている人達についても、「本当に性的な事を自然に連想してしまって嫌な気分になっている」のか、それとも「単にそう思い込んでしまって勝手に怒っているだけ」なのかの区別が俺には付かないので、俺からは何とも言えません。仮に前者の割合が無視出来ないものであるとしても、アンケート調査等では後者との区別は付かないと思いますしねえ。だからこの件については最後は個人個人の判断に依るしか無いと思いますし、そうなると、内々に二次元コンテンツを楽しむ事への火の粉も考えて、俺は慎重な立場を取っています。

 ところで「内々に二次元コンテンツを楽しむ」という表現をしました。最後にこれについて「表現の自由」という言葉と合わせて考えを書いていきたいと思います。先ず「表現の自由」なる権利が「公的な場に於いて如何なる制限も受けない権利」でない事は周知の事実でしょう。そして「公的な」と書いた事からお察しの通り、(憲法学的に正しい解釈であるかは別として)俺は「表現の自由」なる権利の本質は「内々での表現はまじで如何なる制限も受けないもの」である事であると思っています。仲間内でならどんな過激なエロ話をしても良いし、それこそ本当に個人だけで楽しむ分にはどんなに非倫理的なエロ漫画を描いても良いのです(こちらは最早「内心の自由」の方か)。「表現の自由」という言葉は、こういう内々にやっている事を守る為に使うのが利口なんじゃないかと思います。例えば、てめーから俺について調べようとしてブログを読んでそこでの文章にケチをつけて来たり、或いはてめーで態々R-18ページで探さないと見付けられないエロ表現に対して文句を言って来たりとか、こういう時に全力で殴り返す為の根拠が「表現の自由」なんじゃないかなあ、と思っています。

 

 以上、書きたい事は大体書けた気がします。

 

 

追記:

 第4段落で仮定した前提について、二次元に限らず一般に見た目等が好みと合致する女性について、俺は完全に性的欲求が連想される事を防ぐ事は出来ず、またこれは殆どの男性も同様なのではないかと思います。これは無理に否定する事の方が寧ろ不健全な事実である気がします。寧ろ「貴女(或いは特定の女性キャラ)に対して性的な連想をしてしまう事が有るが、自分はそれを意図的に放棄します」みたいに、内的衝動を認めた上で理性側で対処した方が良い事実である気がします。(これは最早、筆が滑り過ぎな気がしないでもないですが、)例えば生徒に淫行して捕まる教師とかは、こういう衝動と理性の区別(及びその切り離し)が上手く出来ずに、理性だけで対処すれば良いものを(内的)衝動の方まで抑圧しようとするからやっちゃうんじゃないかなあ、とか思ったりもします。*5

*1:因みに数学は2次元よりも一般次元、もっと言うと次元とかは気にしない抽象論の方が好きだったりします(幾何は難しいので)。

*2:「ポテンシャリー」という副詞で「当時の俺は認めたがらなかっただろうけど」という事実を表現しています。

*3:ここで1つ弁明をしておきますが、ツイッターやブログは(俺は)それなりにプライベートな空間だと思っています。近い例を出すとしたら「他にお客さんが居る飯屋で友達とする会話」くらいでしょうか。「その気になって会話内容を聞こうと思えば判るけど、基本的には個人間のやり取り」という類いのものです。なので(俺が大好きな)下ネタを言ったり二次元美少女に関するツイートをいいねする、という行為も、先の判断基準に沿う範囲ではしています(下ネタに関しては俺と親しくしてくれている方々の名誉の問題とかも生じてくるので、最近は自分の中の基準をかなり厳しくはしてきていますが…)。

*4:「だったら男の上裸写真は如何なんだ?」みたいなのがこれに対する常套句的な反論の1つとして在りますが、俺は童貞(2022年5月現在)で女心が判らないので、これについては議論しません。世の女性って、男性の上裸でどれくらい性的な事を連想したりするんですかねえ?

*5:因みに俺は「~をしたい」という衝動のコントロールはそれなりに上手だと思っているのですが、一方で「~をしたくない」という衝動のコントロールはかなり苦手です(後者の衝動をコントロール出来ていない結果として前者の衝動もコントロール出来ていない(例えば、勉強したくないからゲームをしてしまう)とかはよく有りますが)。

古文漢文教育について思う事(素人の感想)。

 折角、三角函数の話が出たので、要不要論のもう1人の人気者、古文漢文について思う所を述べておきます。先ず「俺は以前、古文漢文不要論者だったが、最近は少し意見が変わってきた」という事を述べておきます。

 先ず、インフラ的な要不要という文脈での質問として「古文漢文の知識が多い人が減る事によって国民の生活にネガティヴな影響が出る、みたいな職業は存在するか?」というものを考えます。これ、俺は恐らく「ノー」なのではないかと思っています。*1*2なので以前の俺はこれを以て``古文漢文を学校で教えなくて良い''という考えだったのですが、そこに少し変化が有ったので、それについて述べていきます。先ず、先の質問の答えが「ノー」である事から、矢張り大衆の古文漢文に対する知識量の多さを重視する必要は恐らく無いだろうと考えます。もう少し簡単に言えば「単語テストをしてその点数で優劣を決める」みたいな教育は、まあ不要だと思います。恐らく、かつての俺や他の古文漢文不要論者の古文漢文に対するヘイトの最大の原因は、この「暗記テスト」なのではないかと思っています。「ほいなし」とか「るらるるらるすさすしむずじむむずましまほし…」とか、これ等は本当に私的にも公的にも不要な知識であると俺は信じています。そして、恐らく(本当に古文漢文を好きな指導者であるなら、)自分の好きな科目がヘイトを集める事はほいなき事かと思います。*3従って、古文漢文教育は、基本的には知識量よりも「負担は減らしつつ、且つ興味を持つ学生を増やす」という点を重視すると良いんじゃないかなと思います。個人的に思う具体案を1つ提示すると、知識量を評価基準から撤廃し(つまり単語テスト廃止)、寧ろ「よく解らない言語を単語やら文法やら色々と調べながら読む練習の素材」として利用し、また文章としての内容をちゃんと楽しむ事に重点を置いていくと良いんじゃねえかなあ、と思います。その素材として古文漢文を公教育で用いる事には「矢張り我が国のかつての言語である」「関連して、少なくとも他言語よりは日本人にとって馴染みやすい筈である(大衆向けの教材として手頃)」という2点で十分なのではないかと思います。この方法でもちゃんと本当に興味が有る人(つまり、将来、国文学者みたいなまじで古文漢文使う超プロパーな職業に就く人)はちゃんと排出する事が出来ると思います。少し自分語りをすると、俺、文法の暗記が兎に角嫌過ぎて、大学入試では古文完全に捨ててセンター試験は全部1をマークしたんですが、一方で源氏物語の若紫の話とかはちゃんと大好きで、今頃になって漫画買ったり、(本当に極たまにだけど)気になった場面の原文の1文を調べながら訳したりします。この切っ掛けって、高校の頃の国語の先生が授業の合間に面白そうに話していた(源氏物語に関する)余談とかだったりするんですよね。*4っつー事で、下手に「暗記させて試験」みたいな事をさせずに、内容をちゃんと楽しむ余裕の有る教育にした方が、ずっと科目としての良さが活きるんじゃねえかと個人的に思うのです。

 

 以上、全て完全なる素人考えであり、これを基に俺以外の人間に如何なる影響を及ぼす事も意図していません。

*1:因みにこの質問の「古文漢文」の部分を「三角函数」に変えると、答は先ず間違い無く「イエス」なのではないかと思っています。

*2:断定はしていません。(挑発ではなく純粋な興味として)若しそのような職業に心当たりが有る方がおられたら、是非コメントで教えてください。

*3:この点は他の科目の指導者についても同様だとは思うのですが、ここでその科目に関する先の質問に対する返答が「イエス」であったか「ノー」であったかによって判断に差が生まれると思っています。つまり、数学は多少、大衆からのヘイトを集めてでも、大衆全体の知識量を上げる教育をしないと、実際にインフラレヴェルの悪い影響が出るのではないかと考えられるのです。

*4:因みに高校の頃の古文の授業は、1年生の本当に初めの方で「るらるるらるすさすしむ…」を思考停止で丸暗記したのと、たまに先生がする雑談に耳を傾けていた以外は、基本的にずっと漫画読むかゲームするかしてましたねえ。文法事項やらを「覚えなさい」みたいに言われるの、本当に嫌でしたねえ。

例の発言。

 例の三角函数の発言、数学を中心とする理系勢から凄え強い言葉で反論が沸き起こっているけど、そういう連中の中に「三角函数はこれとこれとこの仕事でも使われていて、この仕事は国内にどれくらいの人数が必要で、それを確保するにはどれくらいの人数に教育する必要が在るか?」みたいな根拠をちゃんと数字と論理で用意した上でやっている人間は、果たしてどれくらいいるんですかね?こういうのやらずに雰囲気とか自分の好き嫌いで反論している奴等がいたとしたら、まじあの議員とレヴェル同じだからね。因みに俺は三角函数について自分で納得のいくだけのちゃんとした根拠を用意していないし、一方で金融経済の事は最早ほぼ何も知らないので、強い言葉で三角函数の必要性を訴える事はしません。思考停止の数学信仰はそれはそれでキモいぞまじで。

 一方で恐らくあの議員も議員で恐らくこういう数字と論理による根拠無しで発言しているんじゃないかと思っているので(違ったら本当にごめんなさい)、若しそうならちゃんと頭悪いから政治からは手を引いた方が周囲の人の幸せに繋がるとは思います。てか金融経済自体は恐らくちゃんと大事な知識なのだと思うけど、それを持ち上げる為に何で態々三角函数を下げる必要が在るかね?こういうコミュニケイションの基礎が身に付いていない時点で、やっぱ議員とかは辞めた方が良いんじゃないかな。

「原理的な難しさ」と「現実的な難しさ」

 「数学とサイエンス、どちらの方が``難しい''か?」というのは、数学側、サイエンス側のどちらの陣営でもしばしば議題に挙がるのではないでしょうか。数学側(の多く)は「自分達の方が高尚な事をやっている」という優越感や「社会の役に立たない」というコンプレックスをサイエンスに対して抱き、一方でサイエンス側(の多く)は「自分達のやっている事は社会の役に立つ」という優越感や「でも実は数学苦手だった」というコンプレックスを数学に対して抱いたりしがちなのでは、と予想します。この表裏一体の優越感とコンプレックスが、実は先の質問に答える上でヒントになるのではなかろうかと予想します。

 ではここで「サイエンス」という用語の(ここでの)定義を確認しておきましょう。定義は「原理的な」「現実的な」という2つの形容詞付きで2通り与えます。先ず、原理的な意味での「サイエンス」とは、我々が一般に想像する「世界の現象の原理を知る為の学問」の事です。しかしこれは現実的に人類には絶対に実行する事が出来ません。「何でリンゴは落ちるの?」「それは地球に重力が有るから」「何で地球には重力が有るの?」「(質量を持つ)物体は必ず引力を持ち、地球のそれを重力と呼ぶから」「何で物体は引力を持つの?」「それは…」「そもそも何で引力が在るとリンゴが落ちるの?」「…」という様に、人類が実行しているサイエンスは、最終的には「何故?」という質問に答えられなくなります。ここで、存在するであろう「世界の現象の原理」と「「何故?」に答えられなくなった地点」との間を埋めているのが「観測による帰納的な知」です。つまり「惑星を含む多くの物体を(様々な方法で)観測してきた結果から「如何やら、全ての物体には他の物体を引き付ける``不思議な力''を持つらしい」と現象の原理を予想し、それを正しいと信じて展開していく」というのが、人類が現実的に実行可能なサイエンスであるといえます。即ち「現実的なサイエンス」とは「観測により世界の現象の原理を予想し(帰納的知)、それを正しいと信じて展開していく学問」となります。ここで「予想された原理を基に理論を展開する段階」は恐らく(数学と遠からぬ)純粋な知力(≈学力)によりなされる部分であると思われる一方で「原理を予想する段階」には知力以外の能力/要素が十分に介在する余地の在る部分なのではないかと予想します。それは例えば、(主に財力に由来する)研究者が使用可能な観測器具の質や量であったり、或いは個人の観測技術であったりです。時にはったりをかまして他者を自分の理論を支持する陣営に引き入れる能力も重要でしょう。*1この様に、純粋な知力以外の能力が介在している部分に対して、数学側は先の様な優越感を抱いてしまうのではないでしょうか。しかしこの点に関して言えば、先の様に「純粋な知力以外」と言うとややネガティヴに聞こえてしまいますが、裏を返せば「現実のサイエンスの方がより多様な戦い方が出来る」とも言える気がします。また「予想された原理を基に理論を展開する段階」についても、理論展開の厳密さや高度さを重要視する数学に比して、サイエンスは恐らく(現実に即してさえいれば)理論展開の厳密さや高度さを必ずしも最重要視する事は無いと思われるので、ここも数学側からのマウントの標的にされがちな点なのではないでしょうか。要は興味が違うだけだと思うのですが…*2「サイエンスの人達が使ってくれるお陰で数学は社会との繋がりを持て、一方でサイエンスの人達が安心して使える様に細かいとこは数学側で気を遣わないといけない」って感じですかねえ。持ちつ持たれつな訳で、マウント合戦や劣等感の表明は不毛な気がします。

 さて、サイエンスの定義を厳密にした事で、当初の疑問に対する(俺なりの)解答に近付いてきた気がします。即ち、数学には「原理的な」「現実的な」という区別をする必要が(ほぼ)無いからです。と言うのも、数学は公理や定義(=原理)を初めから自分達で設定する学問であり、展開方法はそれ以降の理論展開のみがであるからです。*3即ち、1行1行、全ての議論を真実であると確認しながら進行する事が出来ます。*4

 以上の議論を基に、当初の疑問に対して以下の(現時点での俺の)解答を与える事にします:

・数学と「原理的なサイエンス」では(人類に実行可能であるか否か、という意味で)数学の方が遥かに簡単である。

・しかし、簡単であるが故に人類の手でどんどん理論展開出来てしまい、結果として(多くの個人にとって)難しく感じられるものになってしまう。即ち、数学と「現実的なサイエンス」では(後者の「純粋な知力以外の要素が大いに介入し得る」という性質も手伝って、)少なくとも純粋な知力のみでの比較では数学の方が難しい。裏を返せば、「現実のサイエンス」の方が総合力で戦える。

 

 いや興が乗って普段頭の中だけで考えている事を色々と書いてみたけど、ちゃんと伝わるものとして言語化出来ている気が全然しねえ。

 

追記:

 幾何学(や一部の解析学)、統計学は多くの場合、数学の一分野と見做されます。しかしこれ等の学問は、実在する物体の形やデータを基に、それ等との整合性を常に気にしながら展開される分野であると思われます。従って、サイエンスと数学の境界に位置する分野であると考えられ、そして両者の難しさを(``÷2''される事無く)包含するものであると思っています。なので、これ等の分野を本当にちゃんと展開しようとすると、(純粋に数学側の分野である)代数や数論よりも遥かに難しいのではないかと信じています。従って、俺は現実の会話で「幾何学は難しい」という旨の発言をよくします。

 

(引用)

スカイプやディスコードでの友達との駄弁り。

*1:これに関しては、数学でも研究費集めたり引用数増やす上で重要だとは思いますけどね。

*2:ところで、人類の観測技術の発展に伴い過去に「正しい」とされていた原理が覆される事もしばしばであり、その意味で「現実的なサイエンス」は「流動的な学問」であると言えるでしょう。

*3:勿論、設定した公理や定義が人類の間で流行るか否かは大いに現実的な問題ではありますが、それは学問自体の本質に何ら影響は無いでしょう。

*4:基礎論の話は俺もよく解らないので気にしない事にします。

身体能力が高い女の子。

 俺は身体能力が(出来れば俺より)高い女の子が好きだ。一緒に運動をしたい。しかしこれには多くの場合、かなりの筋肉が必要になると思われる。筋肉が似合う女の子なら良いのだけど、残念ながら(俺の主観で)その様な女の子は殆どいない(具体例の存在は確認している)。「見た目は極々普通の女の子だけど、身体能力は極めて高い」みたいな女の子がいてくれると嬉しいのだけど、これは(筋肉が似合う女の子より)更に珍しいと思う。幸いな事に、俺にも、例えば長距離走、水泳、天地逆転系の体操種目、バドミントン等、苦手な身体操作が幾つか有るので、こういうものに限定すれば、俺よりも優れた能力を持っている女の子もそれなりにいる筈だ。そういう子と一緒にその種目の練習をしたい。

 ところで、俺は中高でバドミントンをやっていたのだけど、その時期の「頭を使わずに身体を動かす」という習慣の下で生まれた種々の良くない動きが身体に染み付いてしまっているので、寧ろ能力は低いと自己評価している。機会が有れば矯正したいと考えているのだけど、現状、その予定は無い。時に、(これは一般的な主張を意図したものではなく、単に俺の経験則からくる感想なのだけど、)バドミントンが得意な女の子には、怖い子が多い気がする。尤も、これはバドミントンが俺の中で少なくない重要性を占めていた頃の感想なので、改めてバドミントンを1から始めるという立場で見たとすると、また違った感想を抱くかも知れない。

「この人からは嫌われてもいい」という人リスト。

 自分の中に在る(恐らくかなり不健全な)防衛機制の1つをはっきりと言語化する事が出来たので、記録しておきます。恐らく俺はこれ迄、自分の中に「「この人からは嫌われてもいい」という人リスト」を無意識に作っていて、そこに入っている人間から嫌われる事は気にしないできました(という立場を取ってきました)。一方で、俺はリスト外の人から不意に嫌われる事をとても恐れてきました。だから人に嫌われていそうと自分が思い込んでしまった時、「自分は嫌われている」という事をはっきりと認識してしまう前に、その相手をリストに入れてしまう事で、心理的自己防衛を図ってきたのだと思います。そして俺はこのリストに入れた人間とは、基本的に一定の距離を置いてきました。

 今回、或る出来事が原因で、とあるとても尊敬している奴をこのリストに(無意識に)入れようとしていました。そしてこれを切っ掛けに自分の中で違和感を覚えた事で、この悪しき防衛機制言語化する事が出来ました。若しこれをせずにそいつをリストに入れてしまっていたら、恐らく未来の俺はとても後悔し得たのではないかと思います。思い返せば、リストに入れるべきではなかったのにそうしてしまった人も何人か思い当たります。

 俺は(或いはその風貌とは裏腹かも知れないけれど、)とても神経質で小心者で他人の目を気にする人間です。ここ何年か(リストを無意識に作っていた事に由り)「他人から嫌われても気にならない」という事が何回か有り、そのせいで``他人の目を気にし過ぎるのはそろそろ克服出来たかな?''と思い込んでいたのですが、今回の発見から、恐らくそれは勘違いであったのだと判りました。リスト自体は便利なので存在を認識した上で運用を継続しようと思いますが、一方でこのリストの濫用する事に由り将来的に後悔し得るリスクについては、ちゃんと考えていかなければならないと思いました。こういう不安感って、こうして言語化する事で前向きに解消出来る事が多いですよね。

 

追記:いや俺は普段から「自分の人間関係から排除する」という表現を(主に頭の中で)よく使っていて、上記のリストはこの「自分の人間関係」のコンプリメントの事だと思ってほぼ間違いない気がしてきました。なのでリストの存在自体は新しい発見ではなく、今回の収穫は「そのリストの運用方法が不健全であった」という事への認識ですかね。