予備校講師採用試験に2回落ちた九大チンカス研究員の入試数学語り。

毒舌、下ネタ注意。※年々自信を失い、それに伴って毒もマイルドになってきています。

内心の自由と表現の自由。

 先ず初めに、俺は安倍元総理大臣は政治家として凄い人で、彼が亡くなった事はとても残念だと思っています。その上で俺は、例えば俺の生活を何らかの意味で脅かしている人間がいたとして、その人間が死んだ時、普通に嬉しい気持ちになる人間です。何を言いたいかと言うと、(真偽は別として)仮に安倍さんに自らの生活を脅かされていると感じていた人間がいたとしたら、その人が安倍さんの死を嬉しく思う事自体は、人間として極自然な感情であり、何ら道徳的責めを受けなければならない類いのものではないと思うのです。これは「内心の自由」である。

 その一方で、この「嬉しい」という感情を発信するとなると、話は別だと思います。基本的に他人の死を喜んでいる事を発信するなんていうのは下品だと思うし、仮に何らかの理由でその感情を発信すべきだとしても、その人の死を悲しんでいる人に対して十分に配慮をした形を取る様に最大限の努力をすべきだと思います。これは「表現の自由の行使については、一定の制限を課すことができる」という事実に由ります。

 以上、何を言いたかったかと言うと:

・``他人の死を喜ぶなんて人としておかしい''という、他者の内心の自由へ干渉しようとする世の風潮への批判。我々は他者の内心を決して批判してはならず、批判し得るのはその表現のみである;

・その上で、一部の極端な左翼による安倍さんの死に対する「嬉しい」という気持ちの下品な表現は、「表現の自由に対する制限」の観点から糾弾されるべきものである。

という2点です。